藤田 嗣治 三浦 環 絵 12

今秋、東京芸術劇場 劇場前広場にて上演https://t.co/d2wd33EWYT pic.twitter.com/HReQtOqTza, — 東京芸術祭 (@tokyo_festival) January 15, 2019, 「エール」で木枯正人(野田洋次郎)から裕一に紹介していましたね。正人のヒット曲、「酒は涙か溜息か」を作曲した人物ですが、これも実話です。, そして正人はレコード会社を移籍しますが、これも実話で正人のモデル、古賀政男さんはこのころにコロムビアからテイチクへと移籍しています。, そして「船頭可愛や」を歌ったのが、音丸さんという女性歌手。この曲のヒットで、人気歌手の仲間入りをしました。, 「船頭可愛や」は古関裕而さん初のレコード化となった「福島行進曲」を聞いた高橋掬太郎さんが、古関裕而さんに作曲を依頼しました。, 実話でも「福島行進曲」は売れなかったんですけど(^_^;)、高橋掬太郎さんがそれを気に入り、作曲のオファーをしたそうです。, こうして「船頭可愛や」が大ヒットとなり、古関裕而さんは大作曲家へとなっていきました。, ということで「エール」で描かれている「船頭可愛や」は実話で、これから大ヒットします(≧∇≦), これからこの「船頭可愛や」に双浦環と小山田耕三が深くかかわってくるのですが、史実でも、三浦環さんと山田耕筰さんのかかわりがあるのでしょうか?, 三浦環さんは1884年生まれ。「船頭可愛や」に関連する人物の生まれた年を比べてみましょう。, 1884年 三浦環 藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は、日本生まれのフランスの画家・彫刻家。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・ツグハル・フジタ(Léonard Tsugouharu Foujita、レオナール・フジタとも)。, 第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリの代表的な画家である。, 1886年(明治19年)、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)(1854-1941年)は、大学東校(東京大学医学部の前身)で医学を学んだ後、軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鷗外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。祖父の藤田嗣服は元田中藩士[1]。兄の嗣雄(1885〜1967)は朝鮮総督府や陸軍省に在職した法制学者・上智大学教授[2]で、陸軍大将児玉源太郎の四女と結婚。また、義兄(姉たちの夫)に、父の元部下でのちに陸軍軍医総監となった中村緑野(中原中也の名づけ親)、芦原甫の養子・信之(医師)がいる[1]。小山内薫は嗣治の従兄、舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信は甥にあたる。又、遠い親戚に千葉雄大がいる[要出典]。, 藤田は子供の頃から絵を描き始める。父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごした。小学校は熊本県師範学校附属小学校(現在の熊本大教育学部附属小)[3]に通った。1900年、高等師範附属小学校(現・筑波大附属小)を、1905年に高等師範附属中学校(現・筑波大附属中学・高校)を卒業。その頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。, 1905年(明治38年)、森鴎外の薦めもあって東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、藤田の作風は不評で成績は中の下であった。表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動し、観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原遊廓に通いつめるなどしていた。1910年に同校を卒業。卒業に際して製作した『自画像』(東京芸術大学所蔵)は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれている[4]。なお精力的に展覧会などに出品したが、当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。, 1911年(明治44年)、長野県の木曽へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺(木祖村)の天井画を描いた(現存)[5]。この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子(鴇田とみ)と出会って、2年後の1912年に結婚。鴇田とともに榛名湖(群馬県)などを訪れた際に描いたと思われる油彩画『榛名湖』が2017年、鴇田の生家(千葉県市原市)の解体中の蔵から発見されている[6]。, 新宿百人町にアトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田は妻を残して単身パリへ渡航。最初の結婚は1年余りで破綻する。, 1913年(大正2年)に渡仏し、パリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地に過ぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く暮らしていた。藤田は、隣の部屋に住んでいて後に「親友」と呼んだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイズ・キスリング、ジャン・コクトーらと交友を結びだす。フランスでは「ツグジ」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。, また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八、金子光晴、岡田謙三[7]ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた、大富豪の薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。, パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で「黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ、今までの作風を全て放棄することを決意した。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っている。, 1914年、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界大戦が勃発。日本からの送金が途絶え、生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、フランス領内に侵攻していたドイツ軍が守勢に転じて大戦が終局に向かいだした1917年3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエと2度目の結婚をした。この頃に初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになった。, シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモン(en:André Salmon)が序文を書き、良い評価を受けて、すぐに絵も高値で売れるようになった。翌1918年に第一次世界大戦が終結。戦後の好景気に合わせて多くのパトロンがパリに集まって来ており、この状況が藤田に追い風となった。, 面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃に確立。以後、サロンに出す度に黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。, 当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯の出るバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやって来てはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。, このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬ者はいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。, 2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり[8]、その後離婚する。, 1931年には、新しい愛人マドレーヌ(Madeleine Lequeux 1910-1936)[9]を連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。ヨーロッパと文化、歴史的に地続きで、藤田の名声も高かった南アメリカで初めて開かれた個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンのブエノスアイレスでは6万人が個展に訪れ、1万人がサインのために列に並んだといわれる。, その後、1933年に南アメリカから日本に帰国、1935年に25歳年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、一目惚れして翌年5度目の結婚をして、終生連れ添った。1936年旧友ジャン・コクトーが世界一周の旅で日本に滞在し時、藤田と再会し、相撲観戦や夜の歓楽街の散策を供にした。 特設サイト「ゆかりの人々」をご覧ください!https://t.co/aAPQkej0YU pic.twitter.com/tl3PXQRLM1, — 古関裕而 コロムビアレコード【公式】 (@koseki_columbia) May 31, 2020, 山田耕筰さんは東京音楽学校に入り、作曲コースがなかったので、声楽科に入学。そこで新しく講師としてやってきた、三浦環さんから声楽を習いました。, 当時から群を抜く美女といわれた三浦環さん。男子学生の憧れの存在でしたが、やんちゃな山田耕筰さんから悪ふざけで泣かされたこともあったとか(^_^;), 「エール」では山田耕筰をモデルにした小山田耕三を志村けんさんが演じているので、環役の柴咲コウさんとは親子くらい違いますね(^_^;), もしかしたら柴咲コウさん演じる双浦環は50歳くらい?という設定かもしれませんが・・・(笑), 三浦環さんは古関裕而さんが生まれる前の、1907年に助教授となり、その後歌手への夢を捨てきれずイギリスへ。, 三浦環さんが帰国したのが1936年。「船頭可愛や」がまだヒットしていたころで、コロムビア所属の三浦環さんのレセプションが盛大に開かれました。, そのときにちょうどビクターから移籍してきた、作詞家で詩人の西條八十さんが三浦環さんとお話をしていたのを古関裕而さんが目撃。, その後のスピーチで三浦環さんが「西條八十さんのことを西條ハナという女性の詩人だと思っていた」と発言(^_^;), 「船頭可愛や」を聞いた三浦環さんは、この曲をとても気に入り、自分もレコードにしたいと申し出ます。, これには古関裕而さんもびっくり!世界的なオペラ歌手が、自分が作曲した歌をレコードにしたい♪なんて、誰だってびっくりしますよね~。, 当然古関裕而さんは大喜びで、レコーディングに立ち会い、その美声と技巧に感服したそうです。, 青盤(青レーベル)は海外の有名なアーティストのレーベル。一般的な歌謡曲は赤盤(赤レーベル)。, 音丸さんが歌った「船頭可愛や」は赤盤でしたが、三浦環さんが歌った「船頭可愛や」は青盤でリリースされています。, ちなみに古関裕而さんの青盤は三浦環さんの「船頭可愛や」と、のちに環さんに書いた「月のバルカローラ」2枚だけだそうです。, 古山裕一(窪田正孝)が作曲し、裕一の幼馴染の村野鉄男(中村蒼)が作詞をしてレコード化された「福島行進曲」。, 同じコロンブスレコードに所属する、裕一の友人で作曲家の木枯正人(野田洋次郎)は、高梨一太郎(ノゾエ征爾)の作詞した「酒は涙か溜息か」が大ヒットとなっています。, その一太郎を正人が裕一に紹介。一太郎が書いた「船頭可愛いや」という詩に曲をつけてほしいと、依頼されたのです。, 「椿姫」のヴィオレッタ役の二次審査に合格し、最終選考に進んだ音ですが、 作品数100点以上!名作が上野に大集合ー『没後50年 藤田嗣治展』 スポンサーリンク とっても親近感…, 古関裕而の名曲の数々と貴重なエピソードをご紹介する特設サイトはこちら‍♀️https://t.co/23jiKx3ltu, 関連CDはこちらチェック⏩ https://t.co/AiVdnsxBBA pic.twitter.com/44GHpraLlJ, — コロムビア第1マーケティング部 (@columbia_ma1) May 27, 2020, 作曲は裕一のモデルである古関裕而さん。そして作曲は高橋掬太郎さんです。「エール」の高梨一太郎(ノゾエ 征爾)のモデル。, PRESS RELEASE【東京芸術祭2019】 1901年 高橋掬太郎 「情」と「熱」をもつ画家、レオナール・フジタ, 【五十嵐絵里子の他の記事はこちら】 『野外劇 吾輩は猫である』 #コロンブスレコード と #コロムビアレコード 藤田嗣治という名前は知らなくても、藤田の描いた「猫の絵」ならば見たことがあるのではないでしょうか。 おはようございます。 11月27日は、エコール・ド・パリの代表的画家、藤田嗣治 … 青盤レーベルでレコードリリース 公式ホームページ:http://foujita2018.jp, 藤田嗣治『腕一本』東邦美術教会 1936〔復刊:講談社 1984〕 月1回合同で練習会を開いています。私がギターとボーカル担当で毎月3~5曲選びその中から3曲程度演奏できるように頑張っています。 1904年 古賀政男 RMN-Grand Palais / Arnaud Loubry / distributed by AMF © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833, パリの美術界はアンフォルメルなどの抽象絵画を中心とした新しい動きのなかにありました。藤田がかつて過ごしたエコール・ド・パリの華やかな時代は見る影もなく、彼の絵画はすでに過去のものとなっていました。第二次世界大戦の傷跡が生々しく残されたパリで、藤田は孤独と疎外感に苛まれながらも熱心に制作を続けました。, 1955年、68歳の藤田は夫婦でフランス国籍を取得し、1959年にはランス大聖堂でカトリックの洗礼を受けます。洗礼名は、敬愛するルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチに習い「レオナール」。以後の作品のサインは「L.Fujita」「Léonard Fujita」と変わります。洗礼後は、キリスト教をテーマにした絵画を多く手がけています。, 藤田嗣治 《礼拝》 1962-63年 油彩・カンヴァス パリ市立近代美術館(フランス)蔵 © Musée d’ Art Moderne / Roger-Viollet © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833, 1961年、パリを離れて郊外のヴィリエ=ル=バルクという小さな村へ移り住みます。このとき藤田は75歳ですが、制作意欲は衰えず、終の棲家となるアトリエ兼住居は彼の絵画や、陶芸や工芸品、マケット(模型)などで溢れていました。, フランス北東部の都市ランスのノートル=ダム・ド・ラ・ぺ(平和の聖母)礼拝堂は、藤田が設計からレリーフ、壁画、ステンドグランスを手がけた美しい建築物です。, 藤田は晩年、この礼拝堂を新設する大仕事に熱心に取り組みました。壁画制作のために、新たにフレスコ画の技法を習得し、約3ヶ月間をかけてたった一人で描ききりました。1968年1月29日に81歳で亡くなった藤田は、この礼拝堂の祭壇の下に眠っています。, 近年、日記や手紙などの資料の整理公開も進み、画家の新たな理解につながっています。そして、現在、東京都美術館にて、決定版ともいえる大規模な展覧会「没後50年 藤田嗣治展」が開催中です。彼が私たち日本人へ向けたメッセージを考えながら、鑑賞してみてはいかがでしょうか。, 【展覧会概要】 藤田の女性遍歴をみると、双浦環のモデルとなった三浦環の名は出てきませんし、交流があったという記録もありません。 今回の環と嗣人の恋は、二人の実在モデルの生涯を混ぜ合わせて作られた、創作の … 環先生の厳しい言葉が胸に刺さりました。#朝ドラエール#二階堂ふみ#柴咲コウ pic.twitter.com/e5FUZXg36S, — 連続テレビ小説「エール」 (@asadora_nhk) May 25, 2020, 環も「船頭可愛いや」が気に入り、多くの人にこの曲を知ってもらうため、自分が歌うと提案。, 大人気歌手の双浦環が歌うということで、コロンブスレコードのディレクター廿日市(古田新太)は大喜び。, 裕一が小山田に「反逆の詩(うた)」の譜面を見せたシーン。 料金:一般1600円、大学生・専門学校生1300円、高校生800円、65歳以上1000円     ただし、9月17日(月)、9月24日(月・祝)、10月1日(月)、8日(月・祝)は開室 2015年に美術検定1級取得。都内で会社員をしながら、現在アートナビゲーターとして活動中。 !!!出演者オーディション実施!!! 竹内結子のクローゼットでの自殺が三浦春馬と芦名星との共通点で他殺説まで出ているけど. 来月は小関裕而特集をと選曲しだしたのですが、あまりに作品が多く、オカリナと弦楽器の調和できる曲と私たちの年代のギャップもあり、選曲にこんな苦労が伴うとは考えませんでした。でも何とからいげつの練習日までに家で練習する曲の選定と楽譜配布を一日も早くしようと考えている今日この頃です。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。. 藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886-1968)がフランスの地に永眠して半世紀が経ちます。みなさんは藤田についてどのような印象をお持ちでしょうか?, 明治半ばに東京に生まれた画家ですが、その洗練された画風や洒落た風貌から、今なお色褪せないセンスを感じている方も多いと思います。, 2018年は藤田の没後50年の節目にあたり、フランスや日本で回顧展が開かれるなど改めて注目を浴びています。エコール・ド・パリの寵児となった後、激動の時代を絵筆と共に生き抜いた画家。彼の波乱に満ちた人生を知ったうえで作品を鑑賞すれば、魅力溢れる新しい藤田像が立ち上がってくることでしょう。, 藤田嗣治《自画像》1929年 油彩・カンヴァス 東京国立近代美術館蔵 © Foundation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833, 中学時代から画家を志しパリを夢見た藤田は、夜学でフランス語を勉強し、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学します。そして1913年、父親からの資金提供を受け、26歳で単身フランス・パリへ旅立ちました。, 当時、世界中から若手の画家たちが集まっていたパリ。藤田もその仲間入りをするべくセーヌ川左岸のモンパルナスに居を構え、交友関係を広げていきます。パブロ・ピカソ(1881-1973)やディエゴ・リベラ(1886-1957)などの前衛芸術の画家に出会い大きな衝撃をうけ、藤田は日本で受けた美術教育とは異なる独自の芸術を模索し始めます。, そんな矢先、第一次世界大戦が勃発。藤田は決死の覚悟でフランスに残るも、戦争は長期化し、生活は困窮します。, 藤田嗣治 《二人の少女》 1918年 油彩・カンヴァス プティ・パレ美術館(スイス・ジュネーヴ)蔵 © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833, 藤田嗣治 《エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像》 1922年 油彩、銀箔、金粉・カヴァス シカゴ美術館(アメリカ)蔵 © The Art Institute of Chicago / Art Resource, NY © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833, 転機が訪れたのは1917年。フランス人画家のフェルナンド・バレー(1893-1974)との結婚がきっかけで、パリ美術界での人脈が大きく広がります。同年6月には初めての個展を開催し好評を得ました。, 1919年秋にはサロン・ドートンヌに初入選を果たし、22年には初のアジア系審査員になります。藤田の描く「乳白色」を用いた静物画や裸婦像は、大変評判となり注文が殺到します。こうして無名の私費留学生だった藤田は、一躍脚光を浴びエコール・ド・パリの寵児となりました。, そして1929年9月、42歳の藤田は日本に16年ぶりに凱旋します。わずか3ヶ月ほどの一時帰国でしたが、個展や出版を精力的にこなし「パリの藤田嗣治」のイメージを日本に浸透させました。, 藤田嗣治 《タピスリーの裸婦》 1923年 油彩・カンヴァス 京都国立近代美術館蔵 © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833, ミルクのように優しく、奥行を感じさせる柔らかな色彩。「乳白色」は1920年代初めに生み出した下地の色です。独創的なこの色彩は、背景だけでなく静物画や自画像に使われ、1923年ごろからは裸婦の肌の表現へと集約されていきます。当時、藤田はリュシー・バドゥーというモデルを得て頻繁に描いています。彼女は肌が雪のように白く「ユキ」という愛称を贈り、その美しい肌を「乳白色」で神秘的に表現しました。, 近年の研究から、組成は、シルバーホワイト(鉛白)と炭酸カルシウムの化合物にメディウム(媒剤)をまぜてつくったものとわかっています。また、化粧品やベビーパウダーなどに含まれる物質、タルク(滑石粉)がその技法を支えていたことも判明しました。タルクは、油性地でも墨で滑らかに線描できるという特徴があり、藤田はこれを補助的画材として使っていたと考えられます。, 「乳白色」を得た藤田は、それを誇張する絵画技法を考案しました。用いられたのは「墨」と「面相筆」。面送筆は日本画で輪郭線をひく際に用いられる穂先の細長い筆です。日本では馴染みのある画具ですが、これらを油彩画に用いるなど誰も考えませんでした。しかし、藤田は「乳白色」の特性を生かし、油性の下地に水性の墨で描くことに成功したのです。柔らかな白地にひかれた細く繊細な輪郭線は、パリで高く評価され、異邦人である藤田はその存在感をぞんぶんに示しました。, 「乳白色」「墨」「面相筆」によるこの絵画技法は、東西の融合とも呼べる驚きの方法でした。藤田はこの技法を秘密にして、当時のアトリエには同業者を入れたがらなかったそうです。, 藤田嗣治 《自画像》 1929年 油彩・カンヴァス 東京国立近代美術館蔵 © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833, 《広いようで狭いのは世の中だが、実際歩いてみると地球はやっぱり大きい気がするのである。私は死ぬまで旅行者でをはろう》(「日本の旅・世界の旅」1938年 『随筆集 地を泳ぐ』所収), 一時帰国した日本からパリに戻ってからの約2年の間、藤田は常に旅をしていました。 前半にはブラジルやメキシコ、キューバなど中南米諸国へ、また半ばには東京を拠点に国内やアジアへの旅を繰り返します。, 1931年秋、パリでのユキとの生活を放棄した藤田は、新しい恋人であるダンサーのマドレーヌ・ルクーを連れて中南米へ旅立ちます。(マドレーヌは赤毛でスレンダーなスタイルで、藤田の専属モデルとして数多くの作品に描かれています。)各地で制作し、それを売却して旅費を稼ぐいわば「旅絵師」でした。, 旅の間に、異文化に触発された藤田の画風は大きく変化しています。パリでの「乳白色」とは対照的に、濃厚で派手な色彩が印象的です。また、現地の人々をモデルに緻密な水彩画も多く描いており、異国の人々に対する愛情が深かったことも伺えます。, 藤田嗣治 《争闘(猫)》 1940年 油彩・カンヴァス 東京国立近代美術館蔵 © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833, 1939年、第二次世界大戦が始まり、日本へ帰国した藤田はトレードマークのおかっぱ頭を丸刈りにし、戦線取材や「作戦記録画」の制作に没頭します。, 「作戦記録画」とは、第二次世界大戦中、戦意高揚と戦争の記録を残す目的で、戦争を題材として写実的に描かれた絵画のこと。「戦争画」、または「戦争記録画」ともいいます。当時はカラー写真がなかったため、大画面の記録画はそのまま現実を写し取ったもののように人々の目に映り、戦意を煽りました。, 中村研一、宮本三郎をはじめ、藤島武二、小磯良平など多くの画家が戦線を取材し日本軍のために多くの作戦記録画を描きました。藤田は作戦記録画制作にのめりこみ精力的に作製を続け、この分野で画壇を主導するまでになります。, 1943年5月29日、北太平洋アリューシャン列島アッツ島で日米の大規模な戦闘の果て、日本軍の守備隊が全滅しました。藤田が描いたのは、敵も味方も判らないほどに絡み合い、殺しあう肉弾戦の様子。茶褐色で画面いっぱいに描かれた兵士たちは大きな塊となって観るものを圧倒します。背景には雪を頂いた孤島の山々が連なっています。, 《アッツ島玉砕》は200号の大作ですが、異例のスピードで制作され、早くも同年9月の「国民総力決戦美術展」に出品されます。, 実は、この作品は軍からの委託ではなく、写真と想像をもとに藤田自らの意思で描いたものです。普通は軍部が記録すべき作戦を選んで各作家に委託するため、公開には軍部が難色を示したと伝えられています。, しかし、この絵は当時の日本人の心理を捉えました。描かれているのは、自分の息子、夫、兄弟かもしれない・・・。徴兵されていった家族、親戚の姿が重なり鬱積していた悲しみや苦しみが溢れたのでしょう。この絵が各地を巡回すると、手を合わせて祷りをささげ、賽銭を投げる観客がいたといいます。, 戦後73年を迎えた今年、終戦記念日をはさむ会期で東京・上野の東京都美術館で大回顧展が開かれましたが、藤田渾身の作戦記録画を前に、鑑賞者は何を感じるのでしょうか。この後、藤田はいくつもの玉砕図を描き、次第に芸術的な戦争表現を求めていきます。, 1944年、学徒動員も始まり、画家たちも作戦記録画の制作に駆り出され、戦時体制はいっそう厳しくなっていきました。, そんな折、東京美術学校(現・東京藝術大学)で大規模な人事異動があり、画家たちは動揺します。藤田と親しかった西洋画科の小林萬吾、田辺至など作戦記録画で活躍する教授陣たちが排除され、その後任に戦争記録画に関わらなかった、日本画の小林古径、洋画の安井曾太郎、梅原龍三郎という、いずれも美校出身でない画科たちが起用されたのです。同様の人選が帝室技芸員(宮内省の顕彰制度)でも行われました。, 戦争のための作戦記録画に協力した画家が排除されるという、時代に逆行するような人事がなぜ起きたのでしょうか。, 当時、すでに敗戦の影が見え始め、統率力のなくなった軍部は美術界に台頭使用としている新しい勢力を抑えることができなくなっていました。もし戦争に負け、戦争遂行者が断罪される時代になれば、戦争画を描かなかったことは名誉になります。 この事件は、藤田自身に直接に人事的影響をもった事件ではありませんでしたが、作戦記録画を描いた藤田はクーデター後の画壇からはっきりと排除されることになりました。, クーデターを後押ししたのは、宮内省官僚の細川護立、美術史家の児島喜久雄、日本美術院の横山大観といわれています。戦後の日本画壇の体制は、この美校クーデターから始まったといえます。, 1946年1月、GHQによる軍国主義者の公職追放で個人審査が始まりました。実際のところGHQがいわゆる「戦犯画家」のリストの制作を指示したことも、求めたこともありませんでした。無論、当局により藤田が追及されることは全くありませんでした。, それにもかかわらず、「戦犯画家として藤田がひとり責任を負い、日本を去った」という通説が信じられています。藤田を日本画壇から排除しようとした動きとは何だったのでしょう。, 日本美術会・書記長の内田巌が藤田宅を訪問し、戦犯通告をしたといいます。内田は藤田がパリで面倒を見たこともある後輩で、疎開先で生活をともにした同志でした。そんな可愛がっていた後輩に戦犯の責任負うように告げられ、さぞ辛かったことでしょう。, しかし、藤田は話を聞いた後、自ら自転車で鮪を買いに行って、酒までを出して内田を歓迎したといいます。後輩の苦しい立場を察した藤田の人好きで優しい性格が滲み出るようなエピソードです。, 「私は内田にこう言った。・・・私が戦犯と極まれば私は服しましょう。死も恐れませんが出来れば太平洋の孤島に流してもらって紙と鉛筆だけ恵んで貰えれば幸です。答えて後は一切その話は打ち切って小竹町から駅迄自転車で出かけて何か買って内田にだけ、私は酒は一口呑まないからってすすめて話がいろいろはずんで来た。 何んな事があっても私は先生を見捨てたり致しません。必ず私一人丈でお世話をいたします。何うか先生皆んなに代わって一人でその罪を引き受けてください。酒が入って内田は直ぐに泣く、涙もろい人だった。」(夏堀全弘著『藤田嗣治芸術試論』より), 戦後、藤田が美術界で再び大きな力を持つのではないかと恐れ、その復活を阻もうとし画壇の一部と、それを煽り藤田を「戦犯者」のように取り上げたマスコミが作り出した風潮、というのがこの事件の真実のようです。藤田は四面楚歌となり、日本を捨てパリへ復帰する準備を始めます。, 藤田嗣治 《フルール河岸 ノートル=ダム大聖堂》 1950年 油彩・カンヴァス ポンピドゥー・センター(フランス・パリ)蔵 © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833, 終戦後、フランスへのビザの申請はなかなか認められず、藤田は困惑しました。それを救ったのはGHQの芸術担当フランク・シャーマン(1917-1991)です。彼は「パリの藤田」に高い敬意を抱いており、藤田の辛い心境に寄り添い、アメリカへのビザを取得するために力を尽くしました。1949年3月10日、ついに藤田は単身ニューヨークへ向かいます。, 「絵描きは絵だけを描いてください。仲間喧嘩はしないでください。日本の画壇は早く世界水準になってください」, 藤田は記者会見でそう言い残し、羽田から空路、西洋社会へと戻り、その後二度と日本の地を踏むことはありませんでした。, ニューヨークに滞在した10ヶ月は藤田にとって刺激に溢れ制作意欲は大いに高揚しました。この頃のニューヨークは、パリに変わる新たな芸術の中心地。抽象表現主義などの前衛美術が胎動する中、藤田は個展を開き精力的に活動します。そして1950年1月、ようやくフランス行きのビザの申請が認められ、念願のパリへと渡ります。, 藤田嗣治 《カフェ》 1949年 油彩・カンヴァス ポンピドゥー・センター(フランス・パリ)蔵 Photo © Musée La Piscine (Roubaix), Dist.

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