戦艦大和 乗組員 名簿 41

ソロモン諸島では激戦が行われ戦局が悪化していたが、大和はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加できなかった。居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄されている[62](当時満州に満鉄の経営する高級ホテルチェーン、ヤマトホテルがあった)。作戦行動を終えた駆逐艦が大和に横付けし、駆逐艦乗組員が大和の巨大で整った風呂を利用することも多かったという[63]。10月中旬、マーシャル諸島への出撃命令が下った[要出典]。アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである[要出典]。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港する[64][要出典]。, 1943年12月、大和は陸軍独立混成第一連隊をニューアイルランド島へ輸送する戊号輸送に参加[65]。大和は駆逐艦秋雲、谷風、山雲とともに戊一号輸送部隊として横須賀からトラックまでの輸送にあたることとなった[66]。, 12月12日、6隻(大和、翔鶴、山雲、秋雲、風雲、谷風)はトラックを出発、17日に横須賀へ帰着した[67]。, 人員物件を搭載して12月20日に大和、山雲、谷風は横須賀を出発したが、12月25日に大和はトラック島北西150浬でアメリカの潜水艦スケート (USS Skate, SS-305)より魚雷攻撃を受け、主砲3番砲塔右舷に魚雷1本を被雷した[68]。4度の傾斜を生じたが約770トンの注水で復元、速度を落とさず速力20ノット前後でトラック泊地へ向かった[68]。魚雷命中の衝撃を感じた者はおらず、わずかに傾斜したため異常に気づいたという[69]。一方、すぐに魚雷命中と気がついた、乗り込んだ陸軍の兵士が衝撃に驚いて大騒ぎになったという乗員の証言が残されている[70]。爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と3番砲塔上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けた[71]。浸水量は3000-4000トンである[72]。敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった[73]。工作艦の明石に配属されていた造船士官によれば、トラック泊地着後の大和は明石に「右舷後部に原因不明の浸水があり調査して欲しい」と依頼、工作部員達は注排水系統の故障を疑ったものの異常はなかった[74]。そこで潜水調査をしたところ右舷後部に長さ十数m・幅五mの魚雷破孔を発見し、驚いたという[74]。同日、トラックに到着[75]。大和から人員物件は戊三号輸送部隊へと移され、カビエンへ向かった[75]。大和はトラックで応急修理を受けた後、内地への帰還を命じられた。, 1944年(昭和19年)1月10日、3隻(大和、満潮、藤波)はトラック泊地を出発する[76]。15日に瀬戸内海へ到着した[77][78]。 4. stream 修理・改装後、1944年(昭和19年)6月の渾作戦、マリアナ沖海戦に参加した。同年10月中旬以降の捷一号作戦で、アメリカ軍の護衛空母部隊(タフィー3)に対し46cm主砲砲撃を実施した(レイテ沖海戦)。1945年(昭和20年)4月7日、天一号作戦において第二艦隊(第一航空戦隊)旗艦として麾下の第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃したがアメリカ軍の機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。爆撃や魚雷を多数受けたが、対空防御、対水雷防御の両面において、特攻作戦を行わなければ十分な防御能力があった。, ロンドン海軍軍縮条約の失効を1年後に控えた1937年(昭和12年)、失効後にアメリカ・イギリス海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出した。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された[11]。しかし当時すでに航空主兵論が提唱され始めていたこともあり、山本五十六ら航空主兵論の将校からはそうした大型艦の建造が批判されていた[12]。, 1937年(昭和12年)8月21日、米内光政海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が出ると[13]、5年後の1942年(昭和17年)6月15日[14]を完成期日としてここに第一号艦の建造が始動した。同年11月4日には広島県呉市の呉海軍工廠の造船船渠で起工[15]。長門型戦艦1番艦長門や天城型巡洋戦艦2番艦赤城(空母)を建造した乾ドックは大和建造のために1メートル掘り下げて[16]、長さ314メートル、幅45メートル、深さ11メートルに拡張された[17]。イギリスやアメリカにこの艦を超越する戦艦を作られないように建造は秘密裏に進められ、設計者たちに手交された辞令すらその場で回収される程だった[18]。また艦の性能値も意図的に小さく登録された[19]。, 機密保持は厳重を極めた[20]。造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、船台の周囲には魚網などに使われる棕櫚(しゅろ)を用いたすだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた[21]。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、大騒ぎになったという逸話が残っている[要出典]。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた[22]。造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた[23]。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の秘密だった[24]。海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が大和の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという[25]。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している[26]。, 1940年(昭和15年)3月3日、海軍はマル3計画1号艦の艦名候補として『大和』と『信濃』を挙げ、3月6日に昭和天皇は『大和』を選択した[27][28]。軍艦の命名は、海軍大臣が複数の候補を選定して天皇の治定を仰ぐことが定められていた[29]。天皇の決定をうけて吉田善吾海軍大臣は「第一号艦」を大和(やまと)と命名した[5]。なお同日附でマル3計画の各艦艦名、武蔵(2号艦)、翔鶴(3号艦)、瑞鶴(4号艦)も決定している[27]。, 同年8月8日進水[30][31]。ただし進水といっても武蔵(三菱長崎造船所建造)のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた[30]。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった[32]。昭和天皇が海軍兵学校の卒業式出席という名目で大和進水式に行幸する予定が組まれ、造船関係者は社殿風の進水台を制作する[30]。結局は天皇の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄、当時海防艦八雲艦長)臨席のもとで進水式は行われた[30][33]。海軍大臣代理として式に臨んだ嶋田繁太郎海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、大和と呼んだ[34]。造船関係者は葛城型スループ2隻(大和、武蔵)が既に廃艦になっていることから新型戦艦(本艦)の艦名を大和と予測、橿原神宮と千代田城二重橋を描いた有田焼の風鈴を500個制作、関係者のみに配布した[35]。 『もう一度言ってもらえますか?』 問三と問四も問の意味は理解していました。 <>/ProcSet[/PDF/Text/ImageB/ImageC/ImageI] >>/MediaBox[ 0 0 595.32 841.92] /Contents 4 0 R/Group<>/Tabs/S/StructParents 0>> 3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行う[45]。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した[46]。5月29日、大和はミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が座乗して柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため大和が直接アメリカ軍と砲火を交えることはなかった[要出典]。6月10日、アメリカ軍の潜水艦に対して二番副砲と高角砲を発砲した[47]。同6月14日柱島に帰投する[要出典]。, 大和が機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はなかった。実際、主力空母のうち最も低速の空母加賀の速度差は殆ど0、飛鷹型航空母艦は25ノットで大和型戦艦より劣速である。ただ、飛鷹型空母は民間客船を改造した艦で、正規空母ではなく、航空母艦の護衛はより高速な艦が必要だったのは事実である。実際、空母の護衛には戦艦の中では高速戦艦に分類される金剛・比叡・榛名・霧島が用いられることが多かった。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いであった。, 1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に来襲してガダルカナル島の戦いが始まった。8月17日、山本長官以下連合艦隊司令部を乗せた大和は、空母大鷹(春日丸)、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と共にソロモン方面の支援のため柱島を出航する[48]。8月21日、グリメス島付近を航行し[49]、航海中に第二次ソロモン海戦が勃発した。航空機輸送のため2隻(大鷹、曙)をラバウルに向かわせたのち、3隻(大和、潮、漣)は8月28日にチューク諸島トラック泊地に入港したが[50]、入泊直前に大和はアメリカの潜水艦フライングフィッシュから魚雷4本を撃ち込まれた。2本は自爆、1本を回避している[51]。その後、トラック泊地で待機した。 ときどき首席卒業の方を調べにいらっしゃる方がいるので、一応まとめてみます。本来初期には首席という概念がないですが、戦前の名簿でクラスヘッドという扱いで、1期から載っているものもあったので、1期の平山大佐から乗せておきます。宮様を先にあげておきます。 英検3級の二次試験が不合格でした。僕は中学三年生です(今年で高校1年)英検3級の二次試験である面接が不合格でした。結果をサイトで見た瞬間、とてもショックで悔しかったです。自分の面接カードを破ってしまいたいくらいです。再受験では一次試験は免除されますか?本屋でCD付きのものを買ったりした方がよいのでしょ... https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1213413822. 二回も連続で落ちるとかなりショックです。 endobj 7 軍艦 日向 慰霊碑 … 旦那が東大卒なのを隠してました。 JavaScriptが無効です。ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてください。JavaScriptを有効にするには, 戦艦大和の生存者 ご存知の方、よろしくお願いします。, 日本史・62,866閲覧・xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">25, ベストアンサー:戦艦大和の戦死者は2,498名ですが、救助された乗組員数は276名あるいは269名となっています。 質問の上級士官で生存帰還された人では、第二艦隊参謀長である森下信衛. ]。また、大和が左舷に傾斜したため右旋回が出来なくなったとする見方もある[213]。船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという[214]。これらのことにより、アメリカ軍は容易に大和に魚雷を命中させられるようになったが、15分後に副舵は中央に固定された[190]。左舷にばかり魚雷が命中していることを懸念した森下参謀長が右舷に魚雷をあてることを提案したが、もはやその余裕もなく、実行されずに終わった[215]。, また、傾斜復旧のために右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令が出されているが[216]、機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にある冷却用の配管を人力で壊して浸水させる必要があり[要出典]、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である[要出典]。, 14時、注排水指揮所との連絡が途絶し舵操舵室が浸水で全滅した[217]。大和の有賀艦長は最期を悟り、艦を北に向けようとしたが、大和は既に操艦不能状態だった[218]。大和は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた[219]。14時15分、警報ブザーが鳴り、全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプがついたが、もはや対処する人員も時間もなかった[220]。護衛駆逐艦からは航行する大和の右舷艦腹が海面上に露出し、左舷甲板が海面に洗われるのが見えた[221]。, 大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンの第9雷撃機中隊TBF アベンジャー6機による右舷後部への魚雷攻撃であった[222]。14時10分、トム・ステットソン大尉は左舷に傾いたため露出した大和の艦底を狙うべく、大和の右舷から接近した[223]。雷撃機後部搭乗員は、艦底に魚雷を直撃させるために機上で魚雷深度を3mから6mに変更した[224]。4機が魚雷を投下、右舷に魚雷2-4本命中を主張する[225]。やや遅れて攻撃した2機は右舷に1本、左舷後部に1本の命中を主張した[226]。後部への魚雷は、空母ラングレー隊の可能性もある[227]。, この魚雷の命中は、大和の乗員にも印象的に記憶されている。艦橋でも「今の魚雷は見えなかった…」という士官の報告がある。三笠逸男(一番副砲砲員長)は、「4機編隊が攻めてきて魚雷が当たった。艦がガーンと傾きはじめた」と証言している[228]。黒田吉郎砲術長は「右舷前部と左舷中央から大水柱があがり、艦橋最上部まで伝わってきた。右舷に命中したに違いない」と証言した[229]。坂本一郎測的手は「最後の魚雷が致命傷となって、船体がグーンと沈んだ」と述べた[230]。呉海事博物館の映像では、5本の魚雷が投下されたが回避することが出来ないので有賀艦長は何も言わずに命中するまで魚雷を見つめていたという生存者の証言が上映されている。, このように14時17分まで、大和はアメリカ軍の航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機[231]による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、大和の対空火力を破壊した。ただし艦隊の上空に到達して攻撃に参加したのは309機。その中から大和を直接攻撃したのは117機(急降下爆撃機37、戦闘機15機、戦闘爆撃機5機、雷撃機60機)である[232]。, 『軍艦大和戦闘詳報』による大和の主な被害状況は以下のとおり。ただし、「大和被害経過資料不足ニテ詳細不明」との注がある。また大和を護衛していた第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の被害図や魚雷命中の順番とも一致しない[233]。例えば第二水雷戦隊は右舷に命中した魚雷は4番目に命中と記録している。, 最後の複数の魚雷が大和の右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。能村副長は防御指揮所から第二艦橋へ上がると有賀艦長に総員最上甲板を進言し、森下参謀長も同意見を述べた[238]。伊藤長官は森下参謀長と握手すると、全員の挙手に答えながら、第一艦橋下の長官休憩室に去った[239]。森下参謀長は第二艦隊幕僚達に対し、駆逐艦に移乗したのち沖縄へ先行突入する事を命じ、自身は大和を操艦するため艦橋に残った[240]。有賀艦長は号令機で「総員最上甲板」を告げたが[241]、すでに大和は左舷に大傾斜して赤い艦腹があらわになっていた[242]。このため、脱出が間に合わず艦内に閉じ込められて戦死した者が多数いた[243]。有賀艦長は羅針儀をつかんだまま海中に没した[244]。第一艦橋では、茂木史朗航海長と花田中尉が羅針儀に身体を固定し、森下参謀長が若手将兵を脱出させていた[245]。昭和天皇の写真(御真影)は主砲発令所にあって第九分隊長が責任を負っていたので、同分隊長服部海軍大尉が御真影を私室に捧持して鍵をかけた[246]。一方、艦橋測的所の伝令だった北川氏の証言によれば、腰まで海水に浸かり脱出不能となった主砲発令所で中村中尉が御真影を腹に巻いているという報告があったのちに連絡が途絶えたとされる[要出典]。, 14時20分、大和はゆっくりと横転していった。艦橋頂上の射撃指揮所配置の村田元輝大尉や小林健(修正手)は、指揮所を出ると、すぐ目の前が海面だったと証言している[247]。右舷外側のスクリューは最後まで動いていた[248]。左舷の高角砲も半場海水に浸かり、砲身を上下させる隙間から乗員が外に出た[70]。艦橋周囲の手すりには乗員が鈴なりにぶら下がっていた[70]。14時23分、上空のアメリカ軍攻撃隊指揮官達は大和の完全な転覆を確認する[249]。「お椀をひっくりかえすように横転した」という目撃談がある[250]。, 大和の沈没時刻について「軍艦大和戦闘詳報」と「第17駆逐隊戦時日誌」では14時23分[252]、初霜の電文を元にした「第二水雷戦隊戦闘詳報」は14時17分と記録している[253]。爆発によって吹き飛ばされた破片は海面の生存者の上に降り注ぎ、それによって命を落とした生存者も少なくなかった[70]。, 所在先任指揮官吉田正義大佐(冬月、第四一駆逐隊)は、沖縄突入より生存者の救助を命じた[254]。軽巡矢矧から脱出後、17時20分に初霜に救助された古村啓蔵少将は一時作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は生存者を救助のうえ帰途についた[255]。, 14時50分、冬月と雪風が駆けつけ、甲板から垂らしたロープや縄梯子、短艇(内火艇)を使って大和の生存者の救助を開始した[256]。冬月は艦橋から望遠鏡で海上を探索し、2隻の内火艇に指示を出して救助を進めた[257][258]。森下参謀長、石田第二艦隊副官は冬月の内火艇に発見され救助された[259]。, 頭頂部に裂傷を負った能村副長は、森下参謀長から少し離れた海上を漂っていた。副長補佐の国本中尉が「副長ここにあり」と周囲の生存者を呼び集め、負傷者を中心に輪になって救助を待つと、雪風がボート(内火艇)を下して能村副長ら負傷者の救助を始めた。元気な者は縄梯子で甲板に上り、国本中尉は雪風の負傷兵と交代して配置についた[260][261]。小林修正手も彼を救助した雪風が2隻の内火艇を降ろして、重傷を負って殆ど口と鼻だけ水面に出して浮いている兵や、体力を完全に使い果たし自力では動けない兵などを救助していたのを目撃している[262]。能村副長は漂流中に意識を失い、雪風の水兵が一所懸命気付の張り手を加えても覚醒しなかった。大佐の襟章も重油で汚れていて本人確認が難しく、気絶したまま雪風軍医長の縫合を受けて生還した[263]。, 冬月、雪風による大和の救助作業は16時半頃に切り上げられた[264]。雪風艦上では救助切り上げ、ボートの回収を命令した駆逐艦長に対して大和の士官が「まだ生存者が残っている」と救助の継続を訴えたが、日没が近くなり潜水艦の行動が活発化する恐れがあったこと、損傷艦を救援する作業が控えていたことから、そこで打ち切られた[265][266]。冬月は霞、矢矧の救助を行った後、涼月の探索のため19時2分に先行して海域を離れ、雪風は矢矧の救助後、23時頃まで磯風の救援に当たった[267]。冬月は潜水艦の追跡を受け、同じく雪風は潜水艦から雷撃されたが両艦とも被害はなく、4月8日午前、救助した大和の生存者と共に佐世保に入港した[268][269]。, 大和では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名[270]または276名[271]、第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名であった[272]。, うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円ほど)[要出典]。大和を含めた各艦の用意金額は不明だが、少なくとも浜風に約14万円が用意され、同艦轟沈により亡失したことが記録されている[273]。, 4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、大和の名前も詳細も明らかにされることはなかった[274]。, 大和沈没の報は、親任式中の鈴木貫太郎首相ら内閣一同に伝えられ、敗戦が現実のものとして認識されたという[275]。同様の感想は、大和の沈没を目撃したアメリカ軍搭乗員も抱いている[276]。終戦後の1945年(昭和20年)8月31日、戦艦4隻(山城、武蔵、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された[1]。, 4月30日、昭和天皇は米内海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた[277]。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した[278]。, 12月9日、GHQはNHKラジオ第1放送・第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で大和の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した[279]。アメリカ軍の認識であるため、大和は排水量4万5000トンの戦艦として紹介されている[279]。, 大和が爆発した際の火柱やキノコ雲は、遙か鹿児島でも確認できたという。また、徳之島から見えたという伝承がある[280]。, 爆発は船体の分断箇所と脱落した主砲塔の損傷の程度より、2番主砲塔の火薬庫が誘爆したためとされる[要出典]。アメリカ軍と森下参謀長、清水副砲術長は後部副砲の火災が三番主砲弾薬庫の誘爆に繋がったと推論したが[281]、転覆直後に爆発している点などをふまえ、大和転覆による爆発とする説のほうが有力である[要出典]。能村副長は「主砲弾の自爆」という表現を使っている[282]。戦後の海底調査で、艦尾から70mの艦底(機関部)にも30mほどの大きな損傷穴があることが判明している[283]。これはボイラーが蒸気爆発を起こした可能性が高いとされるが[284]、三番主砲弾薬庫の爆発によるものであるとする報告もある[285]。, 同型艦の武蔵が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、大和は2時間近くの戦闘で沈没した。いささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中した、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めた[286]、武蔵に比べアメリカ軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたなど[287]、日本側にとって悪条件が重なっていた。また有賀艦長は1944年(昭和19年)12月に着任、茂木航海長(前任、戦艦榛名)は出撃の半月前の着任である[288]。新任航海長や、小型艦の艦長や司令官として経験を積んだ有賀艦長が巨艦・大和の操艦に慣れていなかった事が多数の被弾に繋がったという指摘もある[289]。1945年(昭和20年)以降の大和は燃料不足のため、満足な訓練もできなかった[290]。有賀艦長も海兵同期の古村第二水雷戦隊司令官に、燃料不足のため主砲訓練まで制限しなければならない窮状を訴えている[291]。これに対し、大和操艦の名手と多くの乗組員が賞賛する森下参謀長は[292]「大和のような巨艦では敏速な回避は難しく、多数の航空機を完全回避することは最も苦手」と語っている[293]。航海士の山森も、沖縄特攻時のアメリカ軍攻撃の前では、森下の技量でも同じだったとした[294]。その一方で、森下参謀長ならば沖縄まで行けたかもしれないと述べる意見もある[295]。, アメリカ軍航空隊は武蔵一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型戦艦の攻略法を考えていたという[296]。その方法とは、片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようというものだった[要出典]。だが、意図的に左舷を狙ったというアメリカ軍記録や証言は現在のところ発見されていない[要出典]。, さらに、アメリカ軍艦載機が提出した戦果報告と日本側の戦闘詳報による被弾数には大きな食い違いがある。艦の被害報告を受けていた能村副長(艦橋司令塔・防御指揮所)は魚雷命中12本と回想[297]。中尾(中尉、高射長付。艦橋最上部・防空指揮所)は魚雷14本[298]。戦闘詳報では、魚雷10本・爆弾7発[299]。アメリカ軍戦略調査団は、日本側資料を参考に魚雷10本、爆弾5発[299]。アメリカ軍飛行隊の戦闘報告では、367機出撃中最低117機(戦闘機ヘルキャット15機、戦闘機コルセア5機、急降下爆撃機ヘルダイバー 37機、雷撃機アベンジャー60機)が大和を攻撃し、魚雷30-35本、爆弾38発が命中したと主張[300]。第58任務部隊は魚雷13-14本確実、爆弾5発確実と結論づけている[299]。アメリカ軍の戦闘記録を分析した原勝洋は、日本側の戦闘詳報だけでなく、アメリカ軍記録との照合による通説の書き換えが必要だと述べた[301]。アメリカ軍の被害は6機が墜落、5機が帰還後に破棄、47機が被弾した[302]。, 呉市の旧海軍墓地(長迫公園)に「戦艦大和戦死者之碑」がある。大和が建造された旧呉海軍工廠(現在はジャパン マリンユナイテッド)のドックを望む歴史の見える丘にも艦橋の高さの1/10の記念碑が設立された。徳之島にも戦艦大和慰霊塔が建立されている(塔の高さは艦橋の高さと同じ)。建造されたドックは埋め立てられているが、機密保持のために設けられた屋根はそのまま残されている。修繕に使用された北側のドックは、2017年現在も稼働中である。, 戦闘詳報による大和の沈没地点は北緯30度22分 東経128度04分 / 北緯30.367度 東経128.067度 / 30.367; 128.067[303]。だが実際の大和は、北緯30度43分 東経128度04分 / 北緯30.717度 東経128.067度 / 30.717; 128.067、長崎県の男女群島女島南方176km、鹿児島県の宇治群島宇治向島西方144km、水深345mの地点に沈んでいる[304]。, 戦後4回の海底探査が行われている。1982年の探査で最初に大和と思われる船体が発見された。様々な資料を検討して沈没点を推定し、広範囲の海底スキャンが行われた。その結果、通常見られる海底の起伏地形とは異なる反応を得た。引き続き無人探査機を降ろして海底の探査を行ったが、沈船らしき映像が写ったものの途中から天候が悪化したためにその船体が大和かどうか確認できないまま調査を終了している。また、海底の物体の全長が大和と比較して明らかに短いことも指摘されていた。, 1985年(昭和60年)、戦後40年目の節目ということもあり、大和の発見を目指して「海の墓標委員会」が組織され有人海底探査船が同年7月29日より開始された。探査には大和会や遺族会、民間企業の出資で行われた。探査船はイギリスから空輸された3人乗りの「パイセスII」が使用された。7月29日より調査が開始され7月30日には大和の巨大な艦尾とスクリューが確認された。7月31日に主砲弾や艦首部分の菊の紋章が発見され、その直径を測定することで沈没船が大和であると確定された。同日中に艦橋や艦の前半部分も発見されたが、船体が大きく2分割されていることや主砲塔がすべて脱落していることも判明した。この探査ではパイセスIIが把持できる範囲の重量の遺品が海底から収集され回収された。, 1999年(平成11年)にも潜水調査が行われ、海底に散乱した部品の地図が作成された。それを元に海底の様子を再現した模型が作成され、大和ミュージアムで展示された。2009年(平成21年)1月になって大和の母港であった呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)・呉商工会議所・中国新聞・日本放送協会広島放送局等、広島の経済界やマスコミが中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指したが、その後話が立ち消えとなった。, 2016年5月、呉市の依頼で深田サルベージ建設が「はくよう」を投入して調査が行われた[305][306]。総費用8000万円のうち、呉市が6400万円を拠出した[305]。5月10日に調査船は鹿児島を出港し、5月11日より洋上での記念式典の後に調査が開始された[305]。「はくよう」は無人探査機で、ハイビジョンカメラが使用された。調査には大和ミュージアムの学芸員も同席した[305]。この調査では遺品の回収は行われなかった[305]。50時間の映像と7000枚の写真が撮影され、そのデータを元に海底の大和の9分間の3D動画が作成された[306]。動画は大和ミュージアムの企画展示として公開されている[306]。, 大和の艦体は1番主砲基部と2番主砲基部の間を境に、前後2つに分かれている[307]。艦首部より2番主砲塔前(0 - 110番フレーム付近、約90m)までは[283]、右に傾いて北西(方位310度)に向いて沈んでいる[307]。艦中央部から艦尾まで後部(175 - 246番フレーム付近、約186m)は、転覆した状態で東(方位90度)方向を向いている[283][307]。双方をあわせると全長276mとなる。後部も大きく破損しており、破断状態に近いために「大和の船体は3つに分断されている」とする出典もある[308]。その他に、激しく損傷した中央部分と思われるブロックが3つの起伏となり艦尾艦首の70m南に沈んでいる[307]。, 大和の艦首部分は右に傾いて沈んでいる。1番主砲塔は脱落しているが、バーベットは無傷で保たれており1999年や2016年の調査でも潜水艇がバーベットの穴の内部の撮影を行っている。1番主砲塔直後より船体は切断されており2番主砲塔のバーベットは残っていない。艦首部分の右側側面は激しく損傷しており、ほぼ右舷側が吹き飛ばされて存在しない状態となっている。大きく右側に傾斜して海底に沈んでいるので、1番主砲塔横の最上甲板がそのまま海底に繋がっている。バルバスバウは確認できるが、直後で船体に大きな亀裂があり艦首部分は座屈して半壊した状態となっている。菊の紋章は残っているが、以前の探査で確認された金箔が2016年の探査では剥離して失われていた[308]。船首部分の先端は崩壊しており周囲は大きく形を崩しており、過去数度の海底探索で鋼板の劣化により艦首部分の崩壊が次第に進行していることが確認されている[308]。艦橋は船体から脱落して艦首バルバスバウ近くの右舷の下敷きとなっている[308]。艦橋の上に右舷が覆いかぶさっている状態で、15m測距儀や射撃指揮所が遠方から観察できるが、細かい観察は出来ない。, 転覆した状態で、ほぼ海底に水平に沈んでいる。4本のスクリューのうち、3本は船体に無傷で付いているが右舷外側の1本は脱落して海底に突き刺さっている[309]。沈没時の爆発でスクリューシャフトが折れて、脱落したものと思われる。主舵および副舵には損傷はなく、共に正中の位置となっている。艦尾部分のブロックの左舷側の艦底-左舷にかけては艦の正中を超える非常に大きな破壊孔があり、この孔のためにそれより前側と後側では正中線がずれており破断状態に近い[308]。孔の中には艦内を走行するスクリューシャフトが観察されている。また缶(ボイラー)なども発見されている。後部艦橋も船体から脱落して船尾部分の横、海底に突き刺さったスクリューの傍に沈んでいる。, 大和の主砲と副砲はすべて転覆時に脱落した[308]。3基の主砲塔は、海底の同一線上に沈んでいる[310]。これは主砲の脱落が、転覆直後に起こったことを意味しているとされたが、2016年の探査で、沈んでいる順番は北から順に第2主砲(船尾部分の北側)、第3主砲(船尾部分の北側に接する)、第1主砲(船尾部分の南側)ということが判り、艦に設置されていた状態と位置が交差している。9本の砲身はいずれも泥に埋まるなどして確認できていない[308][311]。主砲塔のうち最も保存状態が良いのは1番主砲塔である。1番主砲塔は上下逆になって海底に塔のように直立しており、上部および下部給弾室なども破壊されていない状態で綺麗に観察できる。一番下になっている砲塔本体の装甲も少なくとも側面の装甲はそのまま残っており、測距儀もカバーごと砲塔についたままである[308]。2番主砲塔は大きく損傷しており、給弾室は斜めに傾斜している。沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠とされている[312]。測距儀は残っているがカバーが外れて本体が剥きだしになっている。3番主砲塔は片側半分が海底に埋まっている。副砲のうち1基は3本の砲身が確認されているが、中央の砲身の先端が破裂している。もう1基の副砲は砲身が海底に埋まっていて確認できない。, 座標: 北緯30度43分17秒 東経128度04分00秒 / 北緯30.72139度 東経128.06667度 / 30.72139; 128.06667, 1.

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