ルカによる 福音書 感想 文 25

はじめに 1-4 1A 祈り 5-25 1B 課題 5-7 2B 答え 8-2 1C 時 8-10 2C 内容 13-17 3C 性質 18-23 3B 実現 24-25 2A 恵み 26-38 1B 選び 26-27 2B 祝福 28-37 1C 内容 28-33 2C 土台 34-37 3B 信仰 38. 「天地創造の神への感謝に生きる」、列王記下5章1-14節、ルカ17章11-19節 」, ルカによる福音書 18章1-8節 「僕を安らかに去らせて下さる神」, ルカによる福音書 3章1-6節 「クリスマスの見えない希望」 「汝の信仰、汝を救へり」 (説教音声), ルカによる福音書 19章11-27節 「肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きよ」 『ルカによる福音書』(ルカによるふくいんしょ、ギリシア語: Κατά Λουκάν Ευαγγέλιον Kata Loukan Euangelion、ラテン語: Evangelium Secundum Lucam )は、新約聖書中の一書で、イエス・キリストの言行を描く四つの福音書のひとつ。 Copyright © 2020 日本バプテスト連盟 泉バプテスト教会. 「神のもとに立ち返る祈り」, ルカによる福音書 18章31-43節 All Rights Reserved. 〒073-0175 北海道砂川市空知太西5条7丁目1-24,TEL(教会) 0125-53-3150 / (自宅) 0125-53-2089, powered by Quick Homepage Maker 5.2 based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. 「神からいただくものを何にどう役立てるか?」, ルカによる福音書 20章27-40節 「死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越ししよう!」, ルカによる福音書 24章36-43節 「人類の希望のクリスマス」 ちなみに、「いっぱいになる」と訳されたことばは動詞の「ピムプレーミ」 「神の正義には天国と地獄はつきもの」, ルカによる福音書 17章11-19節 「この世を去る時も、この世が去る時も、キリスト信仰者はひるまない」, ルカによる福音書 24章13-35節 マタイによる福音書 25章14~30節: ルカ19×11-27: 2002.12: 第3話: 見失った羊: ルカによる福音書 15章1~7節: マタイ18×12-14: 2003.1: 第4話: 善いサマリア人: ルカによる福音書 10章25~37節 *** 2003.10: 第5話: 種を蒔く人 Copyright(c) 2010- Nagoya Chuou Kyoukai. ルカによる福音書 1章67節-79節 「心の耳を澄ましてごらん。天上の歓声が聞こえてくるから。」, ルカによる福音書 16章1-13節 「キリスト信仰者の覚悟と本懐」, ルカによる福音書 14章25-33節 「イエス様の弟子として生きるとは、どういうことか?」, ルカによる福音書 15章1-10節 ルカ6章20-26節「イエスの幸いを生きる」2008年9月10日シスターの黙想会 鎌倉6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。6:21 今飢えている人々は、幸いで 「神に罪を赦された者として生きるということ」, ルカによる福音書 7章1-10節 「終わりの時を知り、今を豊かに生きる者」 「クリスマスの平和」 「神に従属することで得られる自由」 「聖書の神が私の神になる時、私は復活の日に復活させられる」 「イエス様は復活された。今こそ旧約聖書の精神に立ち返る時」 ±ãŒå¿ƒã¨ã›ã‚ˆã€ï¼ˆãƒ•ã‚£ãƒªï¼’章5節・文語訳)を愛の憲法にしましょう。その時、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ12ç« 15節)が成就します。「私こそ、放蕩から戻された息子です」と、いつも皆に証ししましょう。, 〒146-0091 東京都大田区鵜の木3-12-2. 「肉眼ではない信仰の目を通してイエス様を見る」, ルカによる福音書 6章17-26節、エレミア17章5ー8節、第一コリント12章27ー13章13節 「キリスト信仰者よ、心は燃えているか」 (説教動画) 「神が全てを知っていて下さるという幸い」, ルカによる福音書 6章37-49節 読書感想文. 「復活の日に」, ルカによる福音書 21章5-19節 1.1.1 《マタイによる福音書22章34~39節》「最も重要な掟」 1.1.2 マザーテレサ; 1.2 右の頬をぶたれたものは左の頬を差し出せ. その内訳は福音書が13回、使徒の働きが9回です。今回の5:1~11には出てきませんが、形容詞の「(聖霊に)満たされた πληρης 」という表現もルカ独自の表現です。ルカ4:1には「聖霊に満ちたイエスは」とあ … 1.2.1 キリストの受難物語; 1.2.2 《ルカによる福音書》第10章25節から37節の「善いサマリア人」 1.3 マザーテレサの言葉から トップ|空知太栄光キリスト教会| 詩篇の世界 | 霊性の回復セミナー| ヘブル語コラム |ヘブル語のキーワード|ヘブル語デイリー・ブレッド|ヘブル・ミドゥラーシュ例会|ヨハネの黙示録を味わう | 再臨と終末預言 |主の例祭における預言的意味 |キリストの花嫁 |「光」についての神学的瞑想| 神の住まい(幕屋)|マタイの福音書1|マタイの福音書2|創世記1~3章の原語に基づく瞑想|主の受難24(改定)|The Hebrew Bible|A Hebrew-English Bible|The Greek Bible |Living Bible | Hebrew New Testament|Bible Hub|eBible Japan|原語で聖書検索|, Copyright © 2020 Hidenori Meigata All Rights Reserved. 福音書=四つの物語 ... 4種類あり、書き手(と思われる人物)の名をとって「マルコによる福音書」「マタイによる福音書」「ルカによる福音書(「使徒行伝」を加えて「ルカ文書」と総称する)」「ヨハネによる福音書」と名づけられている 「汝の信仰、汝を救へり」 ‚邱‚Æ‚É‚æ‚Á‚ÄŒ©‚¦‚Ä‚­‚é–{Ž¿B’˜ŽÒ‚ª“ÇŽÒ‚É“Ç‚ÝŽæ‚Á‚Ä‚Ù‚µ‚¢‚̂́AŽÀ‚Í‚»‚Ì•”•ª‚Å‚Í‚È‚¢‚©‚ÆŠ´‚¶‚½‚Ì‚Å‚ ‚éB. 「神が共にいれば不運があっても不幸にはならない」 ®åˆ¥ã®ç¾å®Ÿã®ä¸­ã€æŽ’除されている人たちと共に生きることこそ、その第一歩ですし、神は最も喜んでくださるのです。, 〒461-0009 名古屋市東区久屋町8-6. 「俺は二つの国の国民なのさ」 ルカ福音書15章には多くのメッセージがありますが、それらは特に三位一体の神の姿を明確に見せてくれます。「父なる神」と「御子イエス」と「聖霊」の立場と役割と相互関係をよく表し、同時に、それぞれの存在と人との関係も明確に見せてくれる、大事な一章です。 「罪の赦しと復活の希望を携えて」 「キリストは死の陰に座する者を平安に導く光」, ルカによる福音書 2章1-20 節 「正義は祈る側にあり」 本文 ルカによる福音書1章を開いてくださ … 「最後の審判と神の正義の実現について」 「祈る者に正義あり」, ルカによる福音書 18章9-14節 QHM, タイトルを「イエスの福音に対する思惟的特徴」としましたが、これだけだと何のことか分からないと思います。ルカ5:1~11は、ペテロを筆頭に他の者もイエスの召しに答えて弟子として従っていく有名な箇所です。私もここからなんども説教をしましたが、聖書を瞑想するときには常に、白紙の状態で臨む姿勢をとっています。今回も新しい視点からこの箇所を味わってみたいと思います。, マルコにもマタイにもペテロを代表とする漁師たちを召し出す出来事を記していますが、実に、その中身は淡々と記されています。ところがルカの場合には、他の福音書とは異なり、マルコやマタイにない「大漁の奇蹟」を挿入しています。なにゆえにこの奇蹟を挿入する必要があったのか。その問いかけに対する私の答えは、この出来事こそルカが福音をどのように理解し、イメージしていたかを私たちに伝える彼の独自の思惟的特徴を表しているように思うのです。その点こそ、今回の箇所を味わう今までない新しい視点と考えています。, イエスはペテロの舟に乗り込んで、岸から沖へ漕ぎ出すように頼みました。そして座ったあとで舟から群衆に向かって次から次へと教えられたのでした。その後に、イエスはシモン・ペテロに向かって、「深みへ漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われたのです。多くの群衆がイエスの話を聞こうと続々と集まって来たことを考えるなら、ペテロとてイエスという方がただならぬ方であることを感じ取っていたことは十分うなずけます。ですから、夜通し働いて何一つ獲れなかったにもかかわらず、「おことばどおり、網をおろしてみましょう」と答えたのです。半信半疑というところがあったと思います。まだイエスと彼との距離は隔たりがありました。その隔たりが見事に打ち壊され、より近いかかわりになるとはこの時点でペテロは想像だにしてはおりませんでした。, 普通、沖の深みでは当時の投網による漁獲法では魚は逃げてしまい、獲ることができなかったようです。ところが想定外のことが起こりました。おびただしい魚が網に入り、そのために網が破れそうになったために、仲間の者たちに合図をして助けてもらいました。しかし獲るには獲ったものの舟が沈みかけそうになったのです。, ここに大きな対比が見られます。少し前までは、「何一つとれなかった」現実があり、もうひとつはイエスの言うとおり網をおろすと「いっぱいになった」現実との対比です。これはペテロを初めてとして他の漁師も「ひどく驚き」ました。ここにある「ひどく驚いた」という動詞はこれまでにも登場している「サンボス」, ペテロが目の当たりにした驚きがまだ冷めやらぬ間に、イエスはペテロに対して(ペテロはここでは他の者たちの代表となっています)、「こわがらなくてもよい。これから後(今から)、あなたは人間(人々)をとるようになるのです。」言われました(5:10)が、「なるのです」は文法的にはBe動詞の「エイミー」, 人間を「生け捕りする」とは恐ろしい表現のようにみえますが、むしろここでは、決して殺したり傷つけたりすることなく、神の愛と恵みの中に取り囲むという意味だと考えるのがよいかもしれません。すでにペテロ自身がイエスによって彼をあるがままの存在して大切に生け捕られたのです。これから後。彼は神の器として、人々の見本として、神が彼を「人を漁る者」として作ってくださるのです。, ルカでは「わたしについて来なさい。」というような招きのことばはありません。しかし、「今から、あなたは人々をとる人にされていきます。」(5:10)と語りかけています。彼らが自分で人を漁る者になるのではなく、イエスがそのような者に必ずする(I will make)という約束が隠されています。. 「キリスト信仰者とこの世の富」, ルカによる福音書 16章19-31節 「信仰に生きよ、そして遭遇し祈れ」 「神との新しい契約とわたしたちの信仰のかたち」 「創造主である神のもとに向かう道をひたすら歩め」 「天上の喜びの歌」, ルカによる福音書 2章25-40節   πιμπλημιは「(聖霊に)満ち溢れる、(恐れに)満たされる、(月や期間が)満ちる、(怒りの感情や驚きで)いっぱいになる」を意味します。ルカ福音書では聖霊に「満たされる」という形では、1:15, 41, 67に。また使徒の働きでは、2:4、4:8、4:31、9:17、13:9で使われています。「ねたみに燃える」という表現も、「聖霊に満たされる」者と対峙するかのように置かれています(ルカ4:28/6:11、使徒5:17/13:45参照)。, 「いっぱいになる」という「ピムプレーミ」πιμπλημιは、ルカの特愛用語で、新約聖書で24回のうち22回がルカ文書にあります。その内訳は福音書が13回、使徒の働きが9回です。今回の5:1~11には出てきませんが、形容詞の「(聖霊に)満たされたπληρης」という表現もルカ独自の表現です。ルカ4:1には「聖霊に満ちたイエスは」とあります。使徒の働きにも、最初の殉教者となったステパノをはじめ、バルナバやパウロなど、聖霊に満ちた多くの人々が登場します。このように、かつては霊的に貧しかった者たちが聖霊によって満たされていくことを最も多く取り上げているのがルカなのです。解放が単に解放するだけでなく、新たな力によって満され続けて神の器として用いられる恵みこそ、真の解放と言えます。. 「神の守りと導きは、たとえないように見えても、実はしっかりあるのだ」 「山の上での主の変容の謎に迫る」 ルカによる福音書 14章25-33節 「イエス様の弟子として生きるとは、どういうことか?」 ルカによる福音書 15章1-10節 「心の耳を澄ましてごらん。天上の歓声が聞こえてくるから。」 ルカによる福音書 … 「キリストは死から復活し、我々の将来の復活の初穂となられた」, マルティン・ルター(1483年~1546年)はドイツ人の神学者、牧師、宗教改革の創始者でした。, 「天地創造の神への感謝に生きる」、列王記下5章1-14節、ルカ17章11-19節 」. 「天国と地獄と神の正義」 All Rights Reserved. ルカの福音書1章前半 「喜びのおとずれ」 アウトライン. 「差別の現実の中、共に生きる」 ルカによる福音書15章1~7節 [説教者:森田喜之牧師] 今日、私たちは部落解放祈りの日の礼拝として守っています。 資産家である父親は広い畑を持っていたのでしょう。下の息子が売ってしまった不動産を差し引いても(全体の三分の一)、広大な畑が残っていました。上の息子は畑で労働をしています。下の息子が貧困になって初めて畑仕事をしたのとは対照的です(, 節)。勤勉な二代目です。現場の苦労も知っています。彼は日々の労働のことを、「あなた(父親)の奴隷/僕となる(ドゥーレウオー)」(, 節)ことと考えています。岩波訳は「奴隷奉公してきた」と訳します。奴隷/僕となるという動詞は、「僕たち(ドゥーロス)」(, 兄は弟の帰還を知ります。そして父親が破格のお祝いを弟のためにしており、乱痴気騒ぎを繰り広げていることを知ります(, 節)。当然兄は怒ります。絶対権力者の父は意外にも兄を叱らずに、ただなだめようとします(, 節)。「なだめる」は、ギリシャ語のパラカレオーという動詞です。「励ます」という意味も、「慰める」という意味も持ちます。教会にとって重要なのは、この言葉が「宗教的勧告(奨励)」という意味で使われ続けたという歴史です。, 上の息子の言い分はこうです。「自分はずっと奴隷奉公をしてきた。父母を敬えとの律法を守ってきた。忠実なわたしのための祝いを一度もしてくれなかったのに、不実な弟のためには度を越した祝いをする。これは不公平ではないか」(, 父親の言い分はこうです。「不公平ではない。お前は常にわたしと共にいた。今わたしに残されている財産の全部(三分の二)は、将来お前に相続される。わたしも律法を守っている。弟は共にいなかった。死んでいたのに復活した。滅ぶべき存在が見出された。馬鹿騒ぎも当たり前だ」(, 節)。今ひとつ説得力に欠ける勧告です。父親は勤勉であることの価値を不当に低く見積もっているように思えます。もしも公平・平等に扱うのならば、兄息子と一緒に毎日パーティーを主催しなくてはいけないのではないでしょうか。, 節)の三つです。それぞれヘブライ語に遡れないこともありません(ナアル、ベン、イェレド)。ただしイェレドという単語はこの譬え話では使いにくい言葉です。おそらくイエスが語った時点では、ナアルとベンしか用いていないところを、ギリシャ語を第一言語とするルカやルカの教会が三種類に「子ども」という単語を使い分けたと推測します。, 譬え話の語り手は、前半と後半とで巧妙に言葉をずらしています。「僕(ドゥーロス)」(, 節)と言い換えます。ヘブライ語ではどちらもナアルという単語になりえます。その辺りを意識して新共同訳では同じ「僕」としたのかもしれませんが、ギリシャ語では別の単語です。パイスの第一の意味は「子ども」です。一種類目の「子ども」です。, 回)。このパイスを家の召使いたちに用いることで、「男女の奴隷をも家の主人(二人の息子の父親)が子どもとみなしている」ということを、話者はさりげなく示しています。, 二種類目はフイオスです。「息子」という意味の男性名詞。ヘブライ語ベンの訳語です。この言葉は、新約聖書に, 回も登場する頻出単語です。なぜなら、一般名詞でもあり、「神の子」や「人の子」という神学用語でもあるからです。この譬え話の中では、「息子」(, フイオスという言葉の使い方で重要なことは、誰の息子であるかです。ギリシャ語は日本語と異なり、まめに人称代名詞を付ける癖があります。新共同訳聖書で省かれがちなその部分をあえて訳出すると、次のようになります。「, 節)。実は、上の息子も同じ勘違いをしています。この勘違いはむしろ常識です。父親だけが非常識にも、下の息子をずっと息子の地位に留めているのです。上の息子は、そのことに抗議して皮肉を言っています。「, 父親の反論はさまざまな角度からなされています。三種類目の「子ども」がここに登場します。「子よ」(, 節)と訳されているテクノンです。元来のイエスの言葉では、ベンというヘブライ語に人称代名詞が付くベニーという形で、「わたしの息子よ」だったと推測できます。「あなたの息子であることを辞めたい」と主張する上の息子にも、父親は、「いや、あなたはわたしの息子である」と宣言します。人は神の子であることを辞めることはできません。, このベニーを、ルカとルカの教会は人称代名詞を抜かした中性名詞テクノンのみにしました。中性名詞ですから息子か娘かを問わない形です。テクノンは全部で, 回もテクノンを用いています。特にルカの出身教会であるフィリピ教会あての手紙でキリスト信徒のことを「神の子(テクノン)」と呼んでいます(フィリピ, 節も参照)。上の息子のような発想になりがちなすべての教会員に向けて、ルカはイエスの言葉にパウロの言葉を被せて二重の意味を込めていることが分かります。「あの人が居るなら自分はこの交わりから出る」などと言わないものです。自分が神の子であることも、隣人が神の子であることも否定できないからです。, 別角度からの勧告もあります。父親から見て誰の息子かだけが問題ではありません。誰があなたの兄弟/姉妹かという問いかけも大切です。兄息子の皮肉を父は切り返します。「, 節「あの」は全て同じフートスという指示代名詞です。同じ文脈なので同様に理解します。すると弟は近くに居ることになります。父の切り返しには「あなたの兄弟はどこにいるのか」という神の問いがこだましています(創世記, 節)。下の息子は「あなたはどこにいるのか」という問いを反芻していたことでしょう(創世記, 節)。ここに兄弟が居る。兄弟となれ。平等を成り立たせるためには連帯が必要です。家の「僕/子ども(パイス)」も父親に同調しています。「, 関連して父親の発言は救いとは何かということにも触れています。それは神と共に居続けるという安定です(, 節)。興味深いことに、ある程度の不満があっても兄息子は救われ続けています(未完了過去)。神と人にはある程度の距離があります。同じように人と人にもある程度の距離が必要です。距離の無い主従関係を父親は求めていません。それはこの家のルールでもないのです。, 節。ギリシャ語オイコス、ヘブライ語ベト)の中にいることに譬えられます。この「家」は、この世界に横行している家父長制的で庇護主義に基づく家制度、家族、擬似家族とは異なります。, でもありません。ルカはあえてパイスやテクノンを用いています。それによって男女の僕たちも、二人の息子も、またここに登場していない娘たちも、すべて「神の子」とされています。非常識かつパーティー好き。この世界の長男優位の秩序をゆるがせにするジェンダーフリー。奇妙な父親を中心にして座り、距離を保って食べて祝う交わりに安定と救いがあります。ここはベテル・神の家(創世記. 「救い主を待ち望む者の心得」 「『クリスマス福音』の真実」 ルカの福音書15章 「恵みへの招き」 アウトライン 1a 問題 「つぶやく」 1-2 2a 説明 「喜ぶ」 3-32 1b 見つける 3-10 1c いなくなった羊 3-7 2c なくなった銀貨 8-10 2b 見つかる 11-32 1c 放蕩息子 11-24 2c 兄息子 25-32 「嵐が来ても大丈夫な家の中に」 いつも一緒に ルカによる福音書15章25-32節 2017年12月31日礼拝説教 2017年12月31日 Category: メッセージ 有名な「放蕩息子の譬え話」のうちの後半部分、上の息子と父親との対話が本日の聖書箇所で … 有名な「放蕩息子の譬え話」のうちの後半部分、上の息子と父親との対話が本日の聖書箇所です。下の息子は「自由」というものについて教え、上の息子は「平等」というものについて教えていると先週申し上げました。本日はそれについて深掘りします。, 全体に上の息子はいたって常識的な人物であるとの印象を持ちます。むしろ父親の方が非常識です。そしてその点にこの譬え話の妙味があります。非常識な下の息子よりも、さらに非常識な父親の姿が神の自由な愛、あるいは愛の神の自由が描かれていたのです。この譬え話全体の中で最も常識的なのは上の息子です。だから上の息子と父親の対話に最大の落差があります。, 資産家である父親は広い畑を持っていたのでしょう。下の息子が売ってしまった不動産を差し引いても(全体の三分の一)、広大な畑が残っていました。上の息子は畑で労働をしています。下の息子が貧困になって初めて畑仕事をしたのとは対照的です(15節)。勤勉な二代目です。現場の苦労も知っています。彼は日々の労働のことを、「あなた(父親)の奴隷/僕となる(ドゥーレウオー)」(29節)ことと考えています。岩波訳は「奴隷奉公してきた」と訳します。奴隷/僕となるという動詞は、「僕たち(ドゥーロス)」(22節)と対応しています。上の息子は、父親の僕と自分を同一視しています。, 彼は家父長制度の中の優等生です。それは、最初に生まれた男性優位の上下関係が基本の秩序です。長男の上に立つ者は父親か祖父しかありません。父親と長男の関係は、主人と奴隷の関係にもなりえます。家の中の序列一位と序列二位の関係は、その他の人々の関係にも影響します。全ての構成員はピラミッド型の上下関係のどこかに位置づけられます。男性が女性よりも上であり、年長者が年少者よりも上であり、直系の者との血縁上の距離が上下を決めます。兄が持つ弟への蔑視と敵視の根元に家父長制があります。「自分が父親の僕であるように、弟も自分の僕であるべきだ」という考えが兄にはあります。, 兄は弟の帰還を知ります。そして父親が破格のお祝いを弟のためにしており、乱痴気騒ぎを繰り広げていることを知ります(26-27節)。当然兄は怒ります。絶対権力者の父は意外にも兄を叱らずに、ただなだめようとします(28節)。「なだめる」は、ギリシャ語のパラカレオーという動詞です。「励ます」という意味も、「慰める」という意味も持ちます。教会にとって重要なのは、この言葉が「宗教的勧告(奨励)」という意味で使われ続けたという歴史です。, 上の息子の言い分はこうです。「自分はずっと奴隷奉公をしてきた。父母を敬えとの律法を守ってきた。忠実なわたしのための祝いを一度もしてくれなかったのに、不実な弟のためには度を越した祝いをする。これは不公平ではないか」(29-30節)。この怒りは至極もっともです。, 父親の言い分はこうです。「不公平ではない。お前は常にわたしと共にいた。今わたしに残されている財産の全部(三分の二)は、将来お前に相続される。わたしも律法を守っている。弟は共にいなかった。死んでいたのに復活した。滅ぶべき存在が見出された。馬鹿騒ぎも当たり前だ」(31-32節)。今ひとつ説得力に欠ける勧告です。父親は勤勉であることの価値を不当に低く見積もっているように思えます。もしも公平・平等に扱うのならば、兄息子と一緒に毎日パーティーを主催しなくてはいけないのではないでしょうか。, わたしたちの常識が揺さぶられています。特に不平等な社会における平等とは何かが問われています。読み解きの鍵は「子ども」という言葉にあります。, 実は、この譬え話には三種類の「子ども」という言葉が用いられています。パイス(26節)、フイオス(11・13・19・21・24・25・30節)、テクノン(31節)の三つです。それぞれヘブライ語に遡れないこともありません(ナアル、ベン、イェレド)。ただしイェレドという単語はこの譬え話では使いにくい言葉です。おそらくイエスが語った時点では、ナアルとベンしか用いていないところを、ギリシャ語を第一言語とするルカやルカの教会が三種類に「子ども」という単語を使い分けたと推測します。, 譬え話の語り手は、前半と後半とで巧妙に言葉をずらしています。「僕(ドゥーロス)」(22節)を、「僕(パイス)」(26節)と言い換えます。ヘブライ語ではどちらもナアルという単語になりえます。その辺りを意識して新共同訳では同じ「僕」としたのかもしれませんが、ギリシャ語では別の単語です。パイスの第一の意味は「子ども」です。一種類目の「子ども」です。, パイスは男の子も女の子も指します。この言葉は新約聖書に24回登場しますが、マルコ福音書には登場しません。同様にギリシャ語が不得意なヨハネも1回しか用いません。ギリシャ語を得意とするルカ文書に集中しています(ルカ9回、使徒5回)。このパイスを家の召使いたちに用いることで、「男女の奴隷をも家の主人(二人の息子の父親)が子どもとみなしている」ということを、話者はさりげなく示しています。, 二種類目はフイオスです。「息子」という意味の男性名詞。ヘブライ語ベンの訳語です。この言葉は、新約聖書に382回も登場する頻出単語です。なぜなら、一般名詞でもあり、「神の子」や「人の子」という神学用語でもあるからです。この譬え話の中では、「息子」(11・13・19・21・24・30節)と翻訳されたり、訳出されなかったりしています(25節「兄の方」)。, フイオスという言葉の使い方で重要なことは、誰の息子であるかです。ギリシャ語は日本語と異なり、まめに人称代名詞を付ける癖があります。新共同訳聖書で省かれがちなその部分をあえて訳出すると、次のようになります。「あなたの息子と呼ばれる資格はありません」(21節)。「わたしのこの息子は死んでいたのに生き返り」(24節)。「彼の(父親の)上の息子は畑にいたが」(25節)。「あなたのこの息子が娼婦と一緒に」(30節)。, 譬え話は冒頭から父親に二人の息子がいたと主張しています(11節と25節)。父親の発言も二人とも息子という立場で一貫しています(24節と31節。31節については後述)。下の息子は、息子の地位を失ったと勘違いしていました(21節)。実は、上の息子も同じ勘違いをしています。この勘違いはむしろ常識です。父親だけが非常識にも、下の息子をずっと息子の地位に留めているのです。上の息子は、そのことに抗議して皮肉を言っています。「あなたのこの息子」という兄の発言は、「わたしのこの息子」という父の発言をもじった批判です。「弟を息子とみなし続け依怙贔屓する父がおかしい」と言いたいための修辞です。二人の息子を公平に扱ってほしいという抗議は、自分は息子として扱われていないという不満として噴出しています。ならば家に入るものか、と。, 父親の反論はさまざまな角度からなされています。三種類目の「子ども」がここに登場します。「子よ」(31節)と訳されているテクノンです。元来のイエスの言葉では、ベンというヘブライ語に人称代名詞が付くベニーという形で、「わたしの息子よ」だったと推測できます。「あなたの息子であることを辞めたい」と主張する上の息子にも、父親は、「いや、あなたはわたしの息子である」と宣言します。人は神の子であることを辞めることはできません。, このベニーを、ルカとルカの教会は人称代名詞を抜かした中性名詞テクノンのみにしました。中性名詞ですから息子か娘かを問わない形です。テクノンは全部で99回登場しますが、ルカ文書では18回(ルカ14回、使徒5回)という頻度です。著しいのはパウロの手紙です。真正の手紙の中でパウロは24回もテクノンを用いています。特にルカの出身教会であるフィリピ教会あての手紙でキリスト信徒のことを「神の子(テクノン)」と呼んでいます(フィリピ2章15節。なおローマ8章16・17・21節も参照)。上の息子のような発想になりがちなすべての教会員に向けて、ルカはイエスの言葉にパウロの言葉を被せて二重の意味を込めていることが分かります。「あの人が居るなら自分はこの交わりから出る」などと言わないものです。自分が神の子であることも、隣人が神の子であることも否定できないからです。, 別角度からの勧告もあります。父親から見て誰の息子かだけが問題ではありません。誰があなたの兄弟/姉妹かという問いかけも大切です。兄息子の皮肉を父は切り返します。「あなたのこの息子」と言うが、「あなたのこの兄弟」とも言えるのではないか(32節)。24節「この」、30節「あの」、32節「あの」は全て同じフートスという指示代名詞です。同じ文脈なので同様に理解します。すると弟は近くに居ることになります。父の切り返しには「あなたの兄弟はどこにいるのか」という神の問いがこだましています(創世記4章9節)。下の息子は「あなたはどこにいるのか」という問いを反芻していたことでしょう(創世記3章9節)。ここに兄弟が居る。兄弟となれ。平等を成り立たせるためには連帯が必要です。家の「僕/子ども(パイス)」も父親に同調しています。「あなたの兄弟が来た。あなたの父親が肥えた子牛を屠った。なぜなら・・・」(27節)。僕には同じ家に住む「神の子」としての連帯感があります。, さらに別角度。父親は律法の問題性に触れています。「残り全部がお前のものということは、そもそも下の息子はお前の半分しか相続できないということだ。ましてや女性たちは相続できない。この法体系が不平等で偏った仕組みなのだから、逆側に肩入れして依怙贔屓するのは当たり前ではないか」。上下・支配が温存されている世界で平等を目指すとは低いところを高める努力です。神の普遍的な愛は、偏向が横行している世界の中では、偏愛という形をとるからです。テクノンという中性名詞は家父長制を撃ちます。, 関連して父親の発言は救いとは何かということにも触れています。それは神と共に居続けるという安定です(31節)。興味深いことに、ある程度の不満があっても兄息子は救われ続けています(未完了過去)。神と人にはある程度の距離があります。同じように人と人にもある程度の距離が必要です。距離の無い主従関係を父親は求めていません。それはこの家のルールでもないのです。, 救いは距離を保ちながらも一つの「家」(25節。ギリシャ語オイコス、ヘブライ語ベト)の中にいることに譬えられます。この「家」は、この世界に横行している家父長制的で庇護主義に基づく家制度、家族、擬似家族とは異なります。houseでもhomeでもfamilyでもありません。ルカはあえてパイスやテクノンを用いています。それによって男女の僕たちも、二人の息子も、またここに登場していない娘たちも、すべて「神の子」とされています。非常識かつパーティー好き。この世界の長男優位の秩序をゆるがせにするジェンダーフリー。奇妙な父親を中心にして座り、距離を保って食べて祝う交わりに安定と救いがあります。ここはベテル・神の家(創世記28章19節)、教会の原型です。, 今日の小さな生き方の提案は、困っている人の救済に「ずるい」と言わない品位を保つことです。逆に、力を濫用している人の横暴にこそ「ずるい」と言うべきです。それこそ聖書の示す平等です。そのことが体現される礼拝を続けていきましょう。それは神の子同士が連帯感をもって等距離で神を囲む晩餐という祝宴です。この礼拝という交わりに救いがあります。全ての者に、神は「この家に入ろう」と慰め・励まし・宥め・勧めています。.

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