サイレンススズカ スペシャルウィーク 関係 4

第43回(2002年) ダンツフレーム さらにGI馬が名を連ねる宝塚記念に出走。 その後、海外遠征を敢行し、G1を勝利したことが13話で語られ、ウィンタードリームトロフィーへと参戦するべく帰国する。既に逃げの脚質に戻していたようだが、レースに登場したのが追い込んだ11話以来であったため、追い込み宣言で視聴者やスぺシャルウィークを惑わせるといった心理戦も見せている。(レースではもちろん逃げている), 1994年に母ワキアと父サンデーサイレンスとの間に生まれた牡馬。 第61回(2020年) クロノジェネシス, まだまだこれからもっと走れると思っていた矢先のことで、非常に残念な思いでいっぱいです。うちの生産馬ではないので詳しいコメントは失礼になりますが、サンデーサイレンスの産駒としては異質なタイプで、その卓越したスピードから生産地では種牡馬として大変期待を懸けていたことは窺われます。残念としか申し上げられません, 当時はサンデーサイレンスの産駒はまだデビュー前であり、後にサンデーサイレンスの種付け料は2500万円(不受胎8割返金条件付き)にまで値上げされるものの、当時の種付け料は400〜500万円程度だった, なお、当初ワキアの繁殖相手にバイアモンが選ばれたことについて、稲原牧場の稲原昌幸は当時を振り返り、「当時のバイアモンは、まさに鳴り物入りだったんですよ。ですから、一番期待している繁殖牝馬にバイアモンを配合するのは当然すぎる選択でした」と語った。クラシックを狙える重厚な血統背景をもつバイアモンに比べ、当時のサンデーサイレンスは1991年に種付けを開始していたものの、産駒はまだデビューしておらず、サンデーサイレンス自身の競走成績は優れていたものの、母系の血統が貧弱であったことから、種牡馬としての真価は未知数であった, 手前を替える=走行中に回転する四肢の送りを左右で入れ替えること。地面を蹴る軸足が左右入れ替わるため、疲労が軽減される。直線で武は頭を外に向けさせて手前を右から左に替えさせていた, こうした経緯に加えて、橋田は「普通で考えたら1000メートルを58秒台で行って2200メートルを逃げ切る馬なんか一頭もいませんから、そこに出走させて逃げ切りを狙うというのは非常識なんですよ。過去にそんな馬は見たことがありませんからね。だけど、私から見たら今のサイレンススズカなら、そうした非常識を非常識でなくしてしまう力があると思うんですよ。換言すれば、常識への挑戦ということですね。この馬なら十分、それが可能だと思いますから」と付け加えている, ただこの時のエアグルーヴは体調が優れず、調教の結果次第では宝塚記念を回避する可能性もあったため、出走可否については調教師の, 南井はそれまでサイレンススズカと4度対戦しており、神戸新聞杯でマチカネフクキタルの鞍上を務めていた。なお、ゴーイングスズカの鞍上は, アグネスタキオンは2008年にリーディングサイアーとなり、父サンデーサイレンスの連続リーディングサイアー戴冠を止めた。上記野元の評価は、アグネスタキオンの初年度産駒が誕生する前年に書かれたものである。, http://www.jra.go.jp/kouza/yougo/w539.html, https://www.prcenter.jp/yushun/blog/2014/05/post-1204.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=サイレンススズカ&oldid=80342710, ワキアオブスズカ(姉) - 父ダンスオブライフ。中央競馬2勝。スズカドリームの母。, クリプティックラスカル(叔父) - フォアラナーステークスなど米GIII3勝。父Cryptoclearance。日本で種牡馬として供用された。, 島田明宏『武豊インタビュー集スペシャル 名馬篇』(広済堂出版〈広済堂文庫 シ-8-1 ヒューマン文庫〉、2007年), 『Sports Graphic Number PLUS - 20世紀スポーツ最強伝説(4)競馬 黄金の蹄跡』(文藝春秋、1999年), 『名馬物語 The Best Selection』(エンターブレイン、2002年), 『名馬物語 - The best selection(3)』(エンターブレイン、2004年), 『競馬モンスター列伝 ターフに降臨した"絶対王者"たちの系譜!』(洋泉社、2005年), 『ニッポンの名馬 プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち』(AERAムック、2010年), 『優駿』(日本中央競馬会)1999年1月号、2001年2月号、2007年12月号、2008年11月号. 無口で物静か。不思議な透明感と、どこか影のある憂いを秘めたクールな美少女。 しかしこの事件が武豊というジョッキーをさらなる高みへ導くことになる。 「敵は己自身!打ち勝つことはできません! 第39回(1998年) サイレンススズカ サイレンススズカの競走馬データです。競走成績、血統情報、産駒情報などをはじめ、50万頭以上の競走馬・騎手・調教師・馬主・生産者・レースの全データがご覧いただけます。 第40回(1999年) グラスワンダー 大逃げが特徴のスズカちゃん!コミックではスぺちゃんと同室ですね!お母さんはワキアです! フジキセキ 追い風も向かい風も味方になるから 第53回(2012年) オルフェーヴル 第16回(1975年) ナオキ 第21回(1980年) テルテンリュウ, 第22回(1981年) カツアール 4歳(現表記3歳)の秋までは勝ちきれないレースが続いていたが12月にGⅡ香港国際カップ(現GⅠ香港カップ)にて、後の相棒となる武豊騎手が初騎乗。 結果は5着だったが武騎手はこう述べた。 第15回(1974年) ハイセイコー サイレンススズカ(英: Silence Suzuka 、香港表記:無聲鈴鹿、1994年 5月1日 - 1998年 11月1日)は日本の競走馬。. 第12回(1971年) メジロムサシ 「どこまで行っても逃げてやる! 「これは大変!大変!やはり府中の二千mには、魔物が棲んでいた! レースはスタートから飛び出した最内のスズカがハナを切り大きく差を広げていく。1000mを57秒台の快ペースで通過した時点で二番手のサイレントハンターには10馬身近い差がつき、その後ろも7~8馬身近く開きカメラを一杯までひかないと馬群が入りきらないほどの圧倒的なリードをつけていた。 「抑えようと思ってもきかない。だったら、前半から好きなように走らせた方がいいと思った。この馬は走っているときがいちばん楽しそうでしたからね。それでも持つんじゃないかな、と」  作詞・作曲:瀧田綺美 編曲:中西亮輔, アニメでは第1話から登場。圧倒的な走りを見せ、スペシャルウィークの憧れの存在になる。 第19回(1978年) エリモジョージ 「泥酔したの、あんときが生まれて初めてだったんじゃないかな。夢であって欲しいな、って」 第60回(2019年) リスグラシュー 第10回(1969年) ダテホーライ 「あんなことになっていなかったらなぁ、って今でも不意に思い出すときがあります。天皇賞は間違いなく勝っていただろうとか、その後のジャパンカップとか、ブリーダーズカップにも行っていたかとか。もし(サイレンススズカが)いたら、きっと凄い仔を出していただろうな、って」, アニメ第6話で自室を左回りにグルグル回る姿が描かれているが、実際のサイレンススズカにも馬房で長時間左回りにクルクル回り続ける「旋回癖」と呼ばれる癖があった。旋回をやめさせたところ、スズカは膨大なストレスを溜め込み、その後のレースに大きな影響を与えてしまったのだとか。なお、この癖が関係してか史実のスズカは左回りのレースを得意としており、アメリカへの遠征計画も同国の競馬場に左回りが多いことが発端である。(当時、左回りの競馬場は中京競馬場と東京競馬場しかなかった。新潟競馬場が左回りになるのは2001年である). 第31回(1990年) オサイチジョージ 第28回(1987年) スズパレード 」とコメントし[63]、橋田は「競馬場に集まってくれたファンの方に存分にレースを楽しんでいただけたかと思うと、これ以上の喜びはありません」と語った[63]。稲原は後年、「このレースだけは、絶対に勝ってほしかった」と振り返っている[68]。なお、レース後にはGII競走でありながら武はウイニングランも行った[63][64]。, 毎日王冠後、橋田がこの年の最大の目標として定めていた第118回天皇賞(秋)に出走。サイレンススズカが出走するとあって他馬の陣営が恐れをなしてか同レースとしては珍しい12頭立てと少頭数でのレースとなった[69]。さらに逃げ馬としては有利となる1枠1番を引き当て、当日の単勝支持率は61.8%、単勝オッズは1.2倍と圧倒的な一番人気に支持された[69]。レース前、多くのTVや競馬紙も上記の有利な条件も踏まえて、サイレンススズカが負ける要素を探したものの、アクシデントがない限りサイレンススズカは負けないという意見が大勢を占め、サイレンススズカのレースの勝ち負けよりも、「どう逃げるのか」「どういう内容の競馬をするのか」という点に注目が注がれた[70]。武は天皇賞の週の半ばに受けたインタビューにおいて、インタビュアーから「オーバーペースにならないように?」と問われると、「オーバーペースでいきますよ」と宣言していた[71]。, 当日の体調について、加茂と武は「あの時が間違いなく一番具合が良かった」と口をそろえて言うほど優れていた[72]。サイレンススズカは好スタートを切り、2ハロン目から加速して後続を突き放すと、毎日王冠を上回る1000m57秒4の超ハイペースで大逃げをうった[69]。競りかける馬はサイレントハンターも含めて1頭もおらず3コーナー手前では2番手に10馬身、さらにそこから3番手までが5馬身と後続を大きく引き離し[73]、この時点で二番手サイレントハンターとは約2秒差、最後方ローゼンカバリーとは6秒ほどの差となっていた[74]。, しかし、4コーナーの手前で突然の失速。左前脚の手根骨粉砕骨折を発症し、競走を中止した[75]。結局予後不良と診断され安楽死の処置がとられた[75]。, 粉砕骨折の詳しい原因は現在も判明しておらず、武はレース後、「悪夢としか言いようがない」とコメントし[76]、死因となった粉砕骨折については「原因は分からないのではなく、ない」とコメントした[77]。橋田は故障の原因について、サイレンススズカのスピードが馬の骨の丈夫さの限界を超えてしまい、それによってショックアブソーバーの役目をする部分が耐えられずに壊れてしまったのではないかと分析している[78]。, レース後の武の落胆ぶりは相当なもので、泣きながらワインを痛飲して泥酔し、その姿を目撃していた複数の一般人がいた。武自身も後に「泥酔したの、あんときが生まれて初めて」と振り返っており[79]、同レースでテイエムオオアラシに騎乗していた福永祐一も「あんな落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言している。永井のもとにはファンから励ましの手紙が多く寄せられたが、その中には「もう競馬は見たくない」「府中にはしばらくいけない」という内容の手紙もあった[80]。, サイレンススズカの死後、エルコンドルパサーやグラスワンダーの活躍によりサイレンススズカの評価はさらに上がることになった。エルコンドルパサーはサイレンススズカも参戦予定であった同年のジャパンカップで完勝を収め、翌1999年はフランスのG1(サンクルー大賞典)、G2で1勝ずつを挙げ、なおかつ凱旋門賞ではモンジューの半馬身差2着に入る成績を挙げ、結果的にエルコンドルパサーに日本国内で土をつけたのはサイレンススズカのみとなった。グラスワンダーも1998年末の有馬記念を制し、翌年も宝塚記念と有馬記念を制している。1999年の宝塚記念において、実況の杉本清はレース前に「私の夢は、サイレンススズカです。夢、叶わぬとはいえ、もう一度この舞台でダービー馬(スペシャルウィーク)やグランプリホース(グラスワンダー)と走ってほしかった。」という言葉を残した[81]。, サイレンススズカの墓は生まれ故郷である北海道・平取町の稲原牧場に建てられ、たてがみと蹄鉄は稲原牧場と阪神競馬場の馬頭観音に納められた[82]。追悼歌「天馬のように(星野豊:作詞/作曲 因幡晃:歌)」も作られた。, スタートから先頭に立って後続との差を徐々に大きく引き離し、直線に入っても衰えない末脚を発揮して逃げ切るというレーススタイルを身上としていた。デビュー当初、陣営は将来を見据えて「抑える競馬を覚えさせたい」という意見で一致しており、新馬戦で橋田は上村に「できれば中団につけ、馬込みに入れて控える競馬をしてほしい」と指示を出した[83]。しかし、このレースでサイレンススズカはスタートからゴールまで馬なりで勝利し[83]、香港国際カップのレース後に武は橋田に「今日は負けたけれども、この馬には押さえない競馬が向いている」と進言した[45]。, 5歳となってから出走した全7戦では、全てのレースでスタートから1000メートルまでの通過タイムが57~58秒を記録し、これは普通の馬であれば非常に速いペースとなり、たとえ1800メートルの距離であっても上がり[† 15]は直線で失速することが多くなる[61]。このようなペースとなった場合追い込み馬の場合は上り35秒の脚を使えば逃げ馬をとらえることができるという計算になる。ところが、サイレンススズカにとって前半58秒台というのは楽な馬なりでのペースになり、後半の上がりも36秒台でまとめるため、そうなると後続馬は上がりを34秒台、もしくはそれ以上のタイムの脚で追い込まないとサイレンススズカを捉えることはできないということになる[61]。このような数字的な裏付けについて橋田は、「普通先行馬が行ったきりでゴールインするのは、前半スローペースに落とし、上がりの勝負に持ち込んで勝つんです。でもサイレンススズカは、最初から飛ばしていって、そのまま早いタイムで直線も乗り切ってしまうんです。これは並みの馬のできることじゃありません」と述べている[61]。南井克巳によるとサイレンススズカはゲートを出てからのダッシュが違うとしており、それは「バカみたいにガーッと行くんではなくて、あくまでも自分のペースなんですよ」としており、そのため普通に走っていても並みの馬とは断然違っただろうと述べており、「とにかくすごいスピード。スピード的にホント、他馬とまったく違うスピードで押し切っちゃうんだから」と付け加えている[84]。, 距離適性について、橋田は宝塚記念出走前の時点には多少の心配はあったというものの、「2000までは問題ない、2200までも我慢するだろう」と思っていたといい、大きな意味では安心してみていたという[85]。毎日王冠後には、同レースでのメンバー構成での勝ち方から「東京なら左回りだし、2400メートルでも大丈夫じゃないか」と確信し、ジャパンカップへの出走を予定していた[86]。距離についての議論はさまざまであるが、武は仮に(距離3200mの)天皇賞(春)でも道中3秒差をつける逃げを展開できれば勝てるはず、というコメントを残している。, 小島貞博は、1992年のクラシック戦線において自身が騎乗し、無敗で皐月賞・ダービーの二冠を制した逃げ馬・ミホノブルボンとサイレンススズカの違いについて、「サイレンススズカは典型的な逃げ馬だという気がします」と述べている[87]。小島によるとミホノブルボンはやや仕掛け気味に先頭に立っていたというが、サイレンススズカの場合は楽に先頭に立っているとしており、普通の馬であれば最後には掴まってしまうところをサイレンススズカは最後まで掴まらず、逆に伸びているところを見るとこれはもう能力の違いというしかない、と述べている[87]。当初短距離馬として見られていたミホノブルボンは徹底した坂路調教によって長距離のレースを克服したが、小島はサイレンススズカもミホノブルボンと同様に「調教で鍛え上げたからこそ天性の才能に磨きがかかった」と評している[87]。, ライターの柴田哲孝は、サイレンススズカは芝2000m級のレースに関する限りであればシンボリルドルフ、ナリタブライアン、テイエムオペラオー、ディープインパクトらと比較しても「"彼"こそは日本の競馬史上"最強馬"ではなかったか」と述べており、「もし時間をコントロールすることができたとして、それらの馬を全盛期のコンディションで一堂に介し、2000メートルのレースを行ったとしたら…。おそらく、いや間違いなく、勝つのはサイレンススズカだ。しかも、圧勝するだろう」と断言しており[88]、東京中日スポーツ記者の野村英俊は、ディープインパクトがサイレンススズカの逃げを自ら潰しに行ったら確実に他馬の餌食になるだろうと推測している[89]。, 当歳時のサイレンススズカは病気になったことがなく、医者にかかったことがないという健康で丈夫な体質をしていた[90]。上村はサイレンススズカのすごさについて「スピードがある、瞬発力がある、体が柔らかい、バネがある。その辺は、すべてにおいて、これまでの馬よりレベルが2つくらい上でした」と述べている[83]。馬体はデビュー当初はしなやかだけだったが、5歳になってから体重が増えただけでなく肩は広く、胸は厚くなって筋肉も強靭になり、スピードと持久力が向上した[91]。肉体面の成長に加えてそれまでは闘争本能のみに頼ってがむしゃらに走っていただけであったが、武豊が騎乗するようになってからその後は息を入れることを覚えたためか二の脚を使えるようになるなど内容もよくなると精神面でも成長を果たした[91]。, 橋田はサイレンススズカの気性について「本当に気っ風の良い気性をしてましたね。実に大人しい馬」と述べている[92]。前述の馬体の成長が成長して以降は精神的な落ち着きが目立っていたと振り返っており、かつて野平祐二が調教師として管理したシンボリルドルフを『馬が楽しそうに走っている』と評したことを挙げ、サイレンススズカの走りにも野平の言葉と同じことを感じたという[59]。, 稲原牧場社長の稲原一美は、『牝馬みたいに可愛い顔をしていても、内に秘めた気性が激しい』とし、これは非常に気性が激しいことで知られたサンデーサイレンスから譲り受け、それが後述の旋回癖にモロに出てしまったのではないかと述べ[93]、橋田もこの気性の激しさはサンデーサイレンスから受け継いだものであるという見解を示している[92]。ただし普段は大人しく、人の言うことをよく聞く馬だったといい[93]、上村も気性について「大人しいし、頭もいいし、優等生的な感じ。お坊ちゃんっていう雰囲気もありました」と述べている[83]。カメラマンの本間日呂志は、毎日王冠の直前に雑誌の依頼で武豊とサイレンススズカのツーショットを撮影した際、サイレンススズカがあまりに素直な性格をしていたため驚いたといい、武のいうことも、自身の希望もよく聞いてくれたと述べている[92]。, 古馬となってからは宝塚記念を制し、左回りの東京、中京での両競馬場でも実績を残した。ただし武によれば中山記念を勝利した際、サイレンススズカは直線でモタれた上に手前を変えるのに苦労したことで、後に「左回りのほうがいい競馬をする。競馬をしやすい」と語っている[50]。, 左回りに関して、当歳のころから「旋回癖」と呼ばれる馬房で長時間左回りにクルクル回り続ける癖がエピソードとして語られている。旋回癖は当歳時の9月に母・ワキアから離乳されて3日が経った時に寂しさを紛らわすために始めたとされており[93]、狹い馬房の中をあまりにも速いスピードで旋回するので、見ている側が「事故が起こるのでは」と心配するほどだったが、結局最後まで何も起きなかった。止めさせようと担当厩務員が馬房に入ると途端に中止するので、自己抑制ができないほどの興奮といった原因によるものではなかったようであるが、この癖が治ることもなかった。この癖を矯正することでレースで我慢することを覚えさせられるのではないかと、馬房に畳を吊すことが試みられたが、体の柔らかいサイレンススズカは狭いスペースでも以前と同様にくるくると回り続けた。そこでさらにタイヤなど吊す物の数を増やして旋回をやめさせたところ、膨大なストレスを溜め込んでその後のレースに大きな影響を与えてしまったため、4歳の冬には元に戻された。, 管理する厩舎のスタッフにとっては、旋回そのもので事故が起こるおそれがないとはいえ蹄鉄が余りにも早く摩耗するため、蹄を削るにも少しでも薄くすると致命的な負傷に繋がりかねず、神経をすり減らす毎日だったという。, 武は1999年にSports Graphic Numberが行ったアンケート『ホースメンが選ぶ20世紀最強馬』『最強場アンケート 私が手掛けた馬編』というアンケートでは双方でサイレンススズカを挙げ、「エルコンドルが活躍するほどスズカの評価が上がる気がして今でもドキドキするんですよ」とコメントした[94]。5歳時はハイペースで逃げつつゴールまでなかなかペースが落ちないというパフォーマンスを見せていたことから「古今東西の名馬を集めてレースをした場合に、一番勝ちやすい馬だった気がします。」とコメントしている[95]。2000年に行われたインタビューではサイレンススズカを「サラブレッドの理想だと思う」と評し、「どんなレースでも、最初から抜群のスピードで他馬を引き離していって、最後までそのままのいい脚でゴールに入ったら、それが一番強いわけでしょう。そういう馬は負けるわけがありません。絶対能力とは、そういうことですよね。その理想を、サイレンススズカという馬は追及していたんです。またその能力を持った馬でした。こういう馬は、めったにいるものじゃありません。何十年に一頭の馬だと思いますよ」と述べた[96]。2003年に行われたインタビューでは、「今まで乗った馬で『凄さ』を感じたのは、オグリキャップ、サイレンススズカ、そしてクロフネぐらい」と述べており[97]、ディープインパクトが引退した2007年にもサイレンススズカを「理想のサラブレッド」と評し、「どちらが勝つかはわかりませんが、ディープインパクトにとって、が最も負かしにくいタイプであるとは言えるでしょうね」と述べている[72]。, 武はサイレンススズカに対して「『本当にこんな馬がいるんだ』という相棒がやっとできて、夢が広がってきたときに、すべてがプツッと途切れてしまった」とその死を惜しむと同時に、「サイレンスに関しては、『この馬は現時点では世界一だ』という自信があった。あの馬には、普通では考えられない結果を出す力が合ったんですよ。例えば、GIで2着を3秒離して勝つこともあり得る馬だった」とインタビューで語っている[98][99]。2007年に行われたインタビューにおいても、「今でも不意に思い出すことがあります。あんなことになってなかったらなぁって。天皇賞は間違いなく勝っていたんだろうなあとか、そのあとのジャパンカップはとか、ブリーダーズカップも行っていただろうなあとか考えてしまいますね。サンデーサイレンス産駒の種牡馬がいま活躍してるじゃないですか。そういうのを見ると、余計に『いたらなあ』と思います。『きっと、凄い子供が出てるんだろうなあ』って」と述べている[72]。, サイレンススズカは武以外の競馬関係者からも高い評価を得ている。調教師の橋田は武と同様に前述のアンケートでいずれもサイレンススズカを挙げ、「斤量や、相手、展開などの条件にかかわらず負けないところが強かった」[95]、「今までの競馬の常識を超える馬だった」[100]と評価している。宝塚記念で騎乗した南井克己は、サイレンススズカに初めて跨った宝塚記念前の最終追い切り後に、「この馬の能力は、(自身が主戦騎手を務めた)ナリタブライアンに匹敵する」とコメントした[101]。サイレンススズカを生産した稲原牧場の牧場長稲原美彦はとあるインタビューで「またこの牧場からサイレンススズカのような馬を?」と聞かれた際に「あれほどのスピードを持った馬をもう一度生産するのは難しい」と答えている。前述の『ホースメンが選ぶ20世紀最強馬』では5票が集まり、橋田・武以外には吉田照哉、岡田繁幸、武幸四郎が投票した[95]。, 杉本清によると、1998年のジャパンカップ翌日に蛯名正義と京都駅で偶然会った際に「昨日はおめでとう」と声をかけて少し話をしたが、その際蛯名は「ウチの馬も強かったんですけど、すいません、もっと強い馬いますよ」と言われ、「どういうこと?」と聞くと蛯名は「サイレンススズカという馬は、本当に強い馬ですから」と言ったという[81]。杉本はこの時について「毎日王冠でエルコンドルパサーは影さえ踏めなかったですから、ジャパンカップが終わった後なのに、まだ毎日王冠のことを言っていたので驚きでした」と回想しており、この時の蛯名の様子については「あの馬が生きていれば、今後もどれだけ強くなったかわからないのに、本当に惜しいことをした」とサイレンススズカの死を心から痛んでいる様子だったと振り返っている[81]。翌1999年にエルコンドルパサーはフランス遠征を行い、サンクルー大賞優勝、凱旋門賞2着と顕著な成績を残すが、杉本はその遠征後にも「ああいう形で、海外のレースを走るサイレンススズカを見てみたかったなあと、つくづく思いました」と述べている[81]。, 他にも、柴田政人は「ファンを魅了する馬だった」[102]、鈴木淑子は「強い逃げ馬がいたらこんなに競馬は面白い、ということを久々に見せてくれた馬だった」と評し[102]、野平祐二は華奢な体型ながらも奇麗な線を持った馬で、「あれだけ軽快に、また非常にスマート、かつ鮮やかに走る馬は他にいないでしょう。鞍上ともマッチして、実に美しい走りをする馬です」[87]、「あんなに美しい格好で突っ走っていって我慢しちゃう馬なんか、過去でもないですよ」と評し、またその存在価値についても、「『片足でも生かせるものなら生かしておきたい』と思う馬だった」と述べている[102]。井崎脩五郎は「この世で最も強い馬は、ハイペースで逃げ切ってしまう馬である」と述べ、日本ダービーを逃げ切った馬の中で最も前半1200mの通過タイムが速かったのはカブラヤオーの1分11秒8だったことを引き合いに出し、そのカブラヤオーがサラ平地の最多連勝記録「9」を記録していたことでサイレンススズカはカブラヤオーの連勝記録を20年ぶりに打ち破る可能性があった「久々に表れた、ケタ違いに強い馬だった」と述べ、第118回天皇賞での死を「競馬会の宝の損失」として惜しんだ[103]。, 2000年に日本中央競馬会がファンを対象に行行われたアンケート「20世紀の名馬大投票」においては、25,110票を集めて4位にランクインした。, 2012年に行われた優駿実施のアンケート「距離別最強馬はこの馬だ!」の芝2,000m部門では、2位に圧倒的な差を付けて1位となった。数ある距離別部門の中で、当該距離でのGI勝利がない競走馬の1位は本馬が唯一であった。, 2013年、「中京競馬場開設60周年記念 思い出のベストホース大賞」で1位に選出された[104]。, 2014年、JRA60周年記念競走(JRA全10場各1レース)当日の特別競走のレース名を決める、『JRA60周年記念競走メモリアルホースファン投票』では、阪神競馬場の記念競走である「宝塚記念」部門でディープインパクト、オルフェーヴルの2頭のクラシック三冠馬を抑え1位となり、当日(6月29日)の第10レースは『永遠の疾風 サイレンススズカカップ』として行われた[105]。, アメリカ遠征に関しては、すべての競馬場が同馬の得意とみられていた左回りで[106]、加えて芝は日本に近い高速馬場、しかも芝路線のレベルは日本と比べればそれほど高いとは言えず、同馬の得意な中距離路線のGIレースが多く施行されていた。武はそうした事実から、「左回りのほうがよかったから、アメリカの芝戦線に一緒に行きたかったですね」と口にしており[98][99]、「アメリカの2000メートル前後の芝の重賞でスローな流れになったときなんかは、サイレンススズカみたいな馬がビュンビュン飛ばせば絶対に負けないだろうな、と思うことはありますよ」と述べている[107]。, サイレンススズカの人気が高くなると、馬主の永井は「サイレンススズカは私の馬ではありません。ファンの方、全員の馬なんです」と公言した[5]。永井によるとサイレンススズカの葬儀の日に稲原牧場についた際にはすでに400から500程のファンが集まっていたといい、「大事にしな、あかんな」と改めて思ったと述べている[108]。死後も花や好物であったバナナ[109]を持ってお墓参りをしてくれるファンも多く、永井はそうしたファンに向けて何か記念になるものを持って帰ってもらおうかと、ぬいぐるみやタオル、携帯電話のストラップなどのグッズをあるだけ送ったというが、それでもなお多くのファンがお参りに稲原牧場へお参りに来てくれるという[108]。, サイレンススズカは5歳時のレースで示したそのレースぶりによって、サンデーサイレンスの後継種牡馬候補として期待を集めることになった。5歳時からすでに橋田や永井のもとへアメリカから種牡馬としての購買のオファーがあり[86]、橋田は公表こそ控えたものの「相当な金額での買い付け希望が出された」とし[86]、「具体的に金額を提示し、『すぐ買う』と言ってきたんですから、これは本物でしょう」と述べている[86]。永井もアメリカから種牡馬としてのオファーが殺到していたことを認め、種牡馬入りさせてまたそこから産駒を預かりたいと考えていたが、「日高の人たちが種牡馬としてのサイレンススズカに期待していましたから、できるなら北海道においてやりたかった」と述べ、オファーをことごとく断ったものの、それでもシャトル種牡馬としての依頼を提示され、『とにかくアメリカにサイレンススズカの血を残してくれ』『何かいい方法を考えてくれ』と依頼されたという[86]。死後には社台グループが以下の追悼コメントを発表し、その死を悼んだ[110]。, 新聞記者の野元賢一は、「優秀ではあるがどこか父の縮小再生産のような馬が多いサンデーサイレンス産駒の中で、例外はサイレンススズカとアグネスタキオンである」[111][† 16]と評しており、数多のサンデーサイレンス産駒の中においても際立って高い能力を持っていると目されていたことも、種牡馬としての期待を高めさせる要因となっていた[† 17]。が、様々な期待や評価があったものの事故死により子孫を残せず、サイレンススズカの種牡馬能力については全て推測の域を出ないままとなった。, 死亡時に全兄弟はおらず、母のワキアが1996年に死亡していたため[112]、生産でサイレンススズカ同様の配合を再現するのは不可能であった。サイレンススズカの事実上の代替馬として期待を集めたのは半弟のラスカルスズカであったが、種牡馬入りしたものの重賞勝ち馬を出せないまま2010年に種牡馬登録を抹消されている。サイレンススズカの事故死の翌年に、姉のワキアオブスズカにサンデーサイレンスが交配され生まれたスズカドリームが2003年のクラシック戦線に顔を出し、サイレンススズカの甥として期待を集めたものの、2005年に調教中の事故で死亡している。, サイレンススズカが誕生した1994年5月1日はイタリアでF1・サンマリノグランプリが行われ、この大会でアイルトン・セナがレース中の事故により亡くなった日であった[113]。馬主の永井が所有馬に付ける「スズカ」の冠号は鈴鹿山脈が由来であるが[114]、第118回天皇賞が行われた1998年11月1日は鈴鹿サーキットにおいて日本グランプリが行われていた日であり[71]、そのため当日は「スズカ、ポールトゥウィン」という見出しが新聞各紙において活字となっていた[71]。, 父・サンデーサイレンスは現役時代にGI6勝を挙げ、1989年には全米年度代表馬に選出。1990年に社台グループ総帥の吉田善哉が輸入し、1995年から13年連続でリーディングサイアーとなった種牡馬である。, 母ワキアは、1000mを57秒台で逃げた快速スプリンターであったが[115]、その父Miswakiはスピードに優れたミスタープロスペクター系の中では、珍しく産駒の距離適性に幅のある種牡馬であった。また母母Rascal Rascalは、Silver Hawkとの間に英ダービー馬Benny the Dipを産んでいる[115]。ワキアの産駒は全て中央競馬で複数の勝利を上げ、唯一残した牝馬のワキアオブスズカも重賞馬スズカドリームを出すなど優秀な繁殖成績をあげた。, 国際競走指定前:

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